第一節:月のさやけき夜
でもあたしは遠い処から来たのよ、それはずうっと遠い処なの。其処へ行った者は誰でも帰って来た事の無い国なの。そうかと云ってお日様でもお月様でもないのよ。唯、空間と影ばかりある処なの、大きな路も小さな路もない処でね。踏むにも地面のない、飛ぶにも空気のない処なの。それでよく此処へ帰って来られたでしょう。何故と云えば恋が『死』より強いからだわ。恋がしまいには『死』を負かさなければならないからだわ。
テオフィル・ゴーティエ『死女の恋』より
第三章 死女の恋
第一節:月のさやけき夜
満月がヴェネツィアはサン・マルコ広場の鐘楼の向こう側に隠れようとしている。それが月光を遮り、月の明けき夜に、一筋の大きな影ができる。その影の傍で二人の女の魔物は対峙していた。
「不愉快ですわ。あなたは本当に不愉快」
女がそう呟いた直後、彼女の右手に握られた回転式拳銃から銃声が轟き、飛び出した弾丸が血飛沫を作り出した。続いてまた別の女の短い悲鳴が響く。
荒い息を吐き出しながらよろめき、座り込んだ肌の青白い白髪の女が月明かりに照らされる。その右腕の付け根は先程の銃弾により大きな穴が穿たれており、その傷は皮膚と肉を侵食するように少しずつ範囲を広げて行く。
その女の前に、月光を遮る鐘楼の影に覆われた女が立つ。暗い影の中で青みがかった碧の瞳が揺れている。
「そんな不完全な生き物が、良く吸血鬼を名乗れたものですわ。名前は何て言ったかしら? ええと、サリー?」
「エルヴァ……よ……」
エルヴァと名乗った女がそうやっとのことで口に出した直後、腕の肉に減り込んだ銀の弾丸が骨を侵食し、彼女の右腕を根元から千切り落とした。
エルヴァの喉から呻きに似た悲鳴が漏れる。それを冷やかな目で見つめながら、彼女の右腕を奪った始祖の吸血鬼が鐘楼の影を一歩出て、その体が月光の下に晒される。
その女には影がない。月の光の下に立つその足元から影は伸びず、ただ女の体だけがそこにある。いやそれだけではない。女の表面には影がない。額に垂れ下がる金色のせせらぎのような髪も、口元に当てられた繻子のような手も、彼女が纏う青緑色のドレスも、その真珠のような肌の上に影を作ることはない。
それが彼女を夜に浮かび上がらせている要因なのだとエルヴァは気が付いた。闇の中で、影を纏わぬ彼女はただ月影だけをその体表に映している。夜に浮遊する女神の幻のように、吸血鬼クラリモンドは口元だけで微笑んだ。
「さて、そろそろあなたの相手も飽きましたわね」
クラリモンドは右手に握った拳銃の銃口に唇を触れると、撃鉄を起こしながらそれを改めてエルヴァに向けた。だがエルヴァは荒い息を漏らしながらもまだ抵抗を見せる。
エルヴァの千切れ落ちた右腕が無数の黄蜂へと変化し、クラリモンドを襲った。だがクラリモンドは動じることもなく、自身のドレスの裾の内から現れた無数の蜘蛛たちにその蜂たちを襲わせる。蜘蛛たちは何の躊躇も見せず、その牙を黄蜂に突き刺し体液を食らって行く。眷属による一方的な虐殺が、その主である女たちの力の差を表していた。
「変化も中途半端ね。月の光がなければ動けない。体の再生もままならない。所詮あなたは作られた怪物。ただ血を吸うだけの魔物は、吸血鬼とは言えなくてよ?」
クラリモンドは口を開きかけたエルヴァの頭部に向かって銀の弾丸を撃ち込んだ。銃声とともにエルヴァの頭の左半分が吹き飛び、その灰色の脳髄を飛び散らせた。
「まあ、汚らわしい」
クラリモンドは一言眉根を寄せて感想を述べると、最早痙攣するエルヴァの亡骸に対する興味を失くし、ふいと目を背けた。そしてドレスの裾を捲り上げ、太腿のホルスターに銃を納める。
人の気配がする。それも結構大人数のようだった。この場所に立っていると面倒なことになる。そう判断したクラリモンドは、音もなく近くの石造りの建物の屋根に飛び乗った。そこからぼんやりと下を眺める。
やがて黒服を着た男たちが見えて、エルヴァの死体を見つめながら騒ぎ始めた。既に元は死体であるエルヴァの体は腐敗が進み、悪臭を放ち始めている。酷く不愉快だ。クラリモンドは音もなく溜め息を吐く。
あの女は元々吸血鬼と呼ばれるものとは別種の化け物だった。いうなれば、誰かが吸血鬼に似た存在を人為的に人の死体から作り出したもの。血を吸い、月の光を糧とするが、逆にいえばそれだけの存在。そもそも吸血鬼は月の光が当たらぬところでは死体に戻るなんてことはない。例え吸血鬼に血を吸われた、吸血鬼としては最下層にある感染種でさえもだ。
一体誰がそんな醜悪なものを作り出しているのだろう。クラリモンドはもはや形を保てず、体が崩れ始めているエルヴァの死体を持ち出そうと四苦八苦している男たちを眺めながら思う。しかもここ数か月、そんな出来損ないが何匹も夜のヴェネツィアを闊歩しているのだ。
この怪物たちの悪趣味な創造主の正体は不明だが、その目的は分かっていた。この怪物たちは皆聖職者を襲うのだ。これまでに何人も被害者が出ている。
あの黒い服の男たちもこの町の教会のものたちだろう。どうみても警察の類には見えない。クラリモンドは掌に顎を乗せて彼らの動向を眺めている。
教会に属するものたちはクラリモンドのような魔物たちにとっては天敵のひとつではある。多くのものは魔物の殺し方を知っていて、神の名を大義名分にして襲って来る。自分のやっていることが自分たちの嫌う魔物以下と気が付いていない醜悪なものたち。だからクラリモンドは神もそれに仕えるものたちも大嫌いだった。
「その筈なのに、何であたしが彼らの手伝いみたいなことを」
うんざりとした調子で小声を漏らす。クラリモンドはエルヴァの死体があの黒服の男たちに持ち去られたのを見て、立ち上がった。
宗教者たちは躍起になって人造の魔物たちを探し回っている。しかしこの町ではその多くを、クラリモンド自身が葬っていた。あのくすんだような異臭を放つ魔力の気配は鼻に突くし、不完全で醜いその存在自体が気に入らないというところもある。しかし何より彼女を動かしているのは、一人の人間の存在だった。
「ロミュオー……」
クラリモンドはそう月に向かって名を呼んだ。かつて、一人の死女が恋した男の名前を。