番外編:貴女がくれた青空を
私は吸血鬼ではあるけれど、青い空を知っている。ずっと昔子供の頃に見上げた広く雄大な青空を。
それは私の友人と作った最初の思い出でもあった。吸血鬼となった私の側に最後までいてくれた親友、クリスタベル。彼女とともに生きたのは私が吸血鬼になった後だったけれど、私はまだ人間であった頃一度だけ、クリスタベルと言葉を交わしたことがあった。
そう、あれは私がまだ青空の下を笑いながら走ることができた頃の記憶。そして親友との掛け替えのない日の思い出だ。
番外編 貴女がくれた青空を
「オルロック伯爵ってあれでしょ? あの怪盗ごっこしてる吸血鬼でしょ?」
クリスチーナはその紅い瞳でその予告状を眺めながら言った。一通り目を走らされた彼女は、それを私に投げて寄越す。褐色に黒い文字が記されたそのカードは回転しながら私の左手に収まった。
「わたしドイツ語分からないけどさ、何か盗りに来るって書いてあるんでしょ?」
「ええ、どうやらこのブローチを狙っているみたい」
私は手に持っていたサファイアのブローチをクリスチーナに見せた。白金で縁を彩られ、楕円に形を整えられたその青い宝石は、私の掌よりも一回り小さい。
「何でそれを狙うんだろうね。特別な石か何かなの? 魔物の体から出てきたとか」
クリスチーナがブローチを見つめながら言った。私は首を横に振る。
「そんな特別な宝石ではないわ。ただのサファイア」
私はそれを胸に留める。そう、これは何の変哲もないサファイアだ。だからきっと、他の人間や魔物にとってはそれ以上の価値はない。
「でもそれ凄く大事にしてるよね、ジェラルダイン」
クリスチーナが足を組み直すと、彼女の耳で赤いルビーのピアスが揺れた。私は頷き、答える。
「ええ、これは他の誰かにはともかく、私にとってはとても価値のあるものだから。子供の頃にね、私の一番の親友がくれた宝石なの」
私の目と同じ色の淡い空色の宝石。それは私にとってだけはただのサファイアではない。これは今は亡き友人が私にくれた何よりも大切な宝物なのだ。だから、オルロックがなぜこれを欲しがっているかは知らないが、命に代えたって渡せるものではない。
「ふ~ん、そりゃ大事だわ。オルロックとかいうのに思い知らせてやりなよ。頼まれればわたしも手伝うから」
「ありがとうクリスチーナ」
私は彼女に礼を言い、そしてブローチを柔らかく握りしめた。このブローチをクリスタベルに貰ったのは、サファイアの色と同じぐらいに澄み輝いた青空が一面に広がる日だった。もう何百年も青空なんてまともに見ていないけれど、その空は今でも目の前にあるように思い出せる。
あれは今と同じように万聖節が迫る季節のことだった。まだ私は確か七歳になるかならないかといった年齢で、父の広い城に住んでいた。
まだまだ世界を知らなかった私にとっては父の城はとても広大で、しかしその中には私以外の子供はいなかったから、いつも一人だった。主人の一人娘として城の中の大人たちは遊び相手になってくれたり、外へ連れて行ってくれたり大事にしてくれたけれど、それでも自分と同じ立場に立ってくれる人がいないことには物足りなさを感じていた。私はあくまで城の主の娘。だからみんな優しくしてくれる。そんな風にひねくれたことを思っていたりもした。
そんな少女時代のある日、父が私に父の友人が城に来るのだと教えてくれた。秋の終わりごろ、寒風が城の壁に容赦なくぶつかる寒い夜のことだった。
「その友人にはジェラルダインよりも一つ二つ年下の娘がいるんだよ。もしかしたら友達になれるかもしれないね」
父はそう私に優しく笑った。同じぐらいの年齢の少女と滅多に会う機会なんてなかったから、不安であり、また同時にひどく楽しみだった。
「友人は明日にはここに来るそうだ。だから今夜はちゃんと眠れるかな? 寝不足の顔をお客様に見せてはいけないよ」
私は黙って頷いた。私はこの時期になると、決まってとても怖い夢を見た。それはきっと、私がもっと小さなころに母にせがんで話してもらった怪談が原因なのだろうけれど。
母は私にこんな話をしてくれた。一年の始まり、万聖節が来るその前夜には、死者の霊が炎となって現れる。地獄にも天国にも行けなかった亡者の魂が辺りを彷徨うのだという物語を。
母から話を聞いたときにはただわくわくしただけだった。それは母が側にいて、空がまだ青く明るかったせいだろう。だけれど陽が落ちて自分の部屋に戻って、窓から外を見たとき、私は確かに夜を彷徨う青白い光の塊を見たように思った。それからだ、私が万聖節が近付くと、夜を恐れるようになったのは。青白い炎が次第に青白い亡者の姿へと変わり、そして私を仲間に入れようと追いすがって来る、そんな悪夢を見るようになった。
だから私はこの季節の夜が嫌いだった。夢を見たくなくて、夜に目を瞑れなくなるから。早くこの時期が過ぎてしまえば良いといつも思っていた。そして父の友人がやって来る前夜もまた、私は同じ夢を見た。
父の友人、レオライン卿が城に現れたとき、私は目の下に大きな隈を作っていたと思う。朝が来てもうつらうつらとしているばかりで、彼にはとても失礼な態度をとってしまったかもしれない。だけれどもレオライン卿は笑って私の頭を撫で、そして彼の一人娘である少女を紹介してくれた。
「クリスタベルと申します」
私より少し小さなその少女は、そう小さくお辞儀をした。薄い金色の髪を肩の下まで伸ばした、とても可愛らしい女の子だった。
私たちはすぐに仲良くなった。城の中で、外で、レオライン卿が父の城に滞在する数日の間私たちはいつも二人で遊んだ。私と同じように父親の大きな城に住んでいるという彼女は、やはり私と同じように同年代の友達がいないようだった。だから私たち二人にとって二人で行うことは何もかもが新鮮だった。
一緒に山を見てはその雄大さに感動し、川に行ってはその流れに腕を浸してその冷たさに笑い合った。庭では冬が来る前に最後に咲かせた花を愛で、部屋では互いの故郷の話を語り合った。
今までにないほどに楽しい日々だった。だけど夜だけは別だった。クリスタベルには専用の部屋が与えられていて、眠るときだけは彼女と離れなければならなかった。寂しさが急に込み上げて来ると同時に、彼女と一緒にいたときには思い出さずに済んでいたあの青白い悪魔たちが私の心を侵した。私は毎夜ベッドの中で震えていた。
「ジェラルダイン様、お体の具合が良くないの?」
そんなある日、クリスタベルにそう尋ねられた。彼女の目から見ても私の顔色は悪かったのだろう。だから私は正直に自分の話をした。相手が同じ子供だったから、自分が怖いことをそのまま話せたのだと思う。大人が相手だったなら、きっと言葉で慰められるだけだったということは分かっていたから。
「そんなことが……」
クリスタベルは怯えた顔をしながらも、私の話を親身になって聞いてくれて、そして私の頭を撫でて慰めてくれた。その小さな手がとても心地よかったのを覚えている。
「今夜は二人で寝ましょう。そしたらきっと、悪い夢も見なくて済みます」
そしてクリスタベルはそう提案してくれた。その夜は父とレオライン卿に頼んで、私たちは私の部屋で眠った。ベッドの上でクリスタベルは自分の話をしてくれた。彼女の母親は彼女が生まれたときに死んでしまい、顔を見たこともないこと。だけれどその母が霊となって自分を守ってくれているのだと教えられ、信じていること。
「だからきっと、死んだ人がみんな恐ろしいものではないと思うのです。死んで人ではなくなってしまってからも、心優しいままでいられるものもいる。そう思うと少しは怖くなくなりませんか?」
クリスタベルの問いに私は頷いた。今まで親しい人が亡くなったことはなかったけれど、父や母が死んだからといって、私を襲う怪物になるとは思えなかった。そう思うと、あの青白い炎ももしかしたらそんなに恐ろしい存在でもないのかもしれないと、そう思える希望も湧いてきた。
「ならもし私が死んでもし人でなくなってしまったとしたら、それでもまだ私の友達でいてくれる? クリスタベル」
私が尋ねると、クリスタベルは笑顔で頷いた。
「あなたが私を好きでいてくれるなら、いつまでも友達です、ジェラルダイン」
そしてその夜はクリスタベルの隣で寝た。彼女がいてくれたからか、それとも彼女の母親が守ってくれたのか、その眠りの中では悪夢を見ることはなかった。
それからたった一日の後、クリスタベルはレオライン卿とともにこの城を去ることとなった。それは毎晩見ていた悪夢よりも私の胸を騒がせるようだった。私は初めて寂しいという感覚を味わった。まるで心に灰色の冬がやって来るような気持ちだった。
その別れの朝は雲一つない青空だった。朝食をとった後、出発までの間の最後の時間にクリスタベルは私を城の外へと連れ出した。
「ジェラルダイン様、これを受け取ってくださいませんか?」
クリスタベルが差し出したのは、彼女が服に留めていたサファイアのブローチだった。彼女の小さな掌には少し余るぐらいの綺麗な青い宝石。
「これは、大事なものではないの?」
「大事なものだからこそ、大切なあなたに渡したいのです」
クリスタベルは私の手を取り、私の掌にブローチを置いた。澄み渡る空を映す鏡のような輝きを持ったそれを、私はまじまじと眺める。
「この宝石はあなたの目と同じ明るい空の色をしているから、これを持っていればきっとあなたは悪い夢を見なくて済むと思うのです。だって悪夢は夜に見るものですもの」
彼女はそう言って、寂しそうに笑った。私はそのブローチを大切に握りしめ、何度もお礼を言った。生まれて初めてできた親友からもらった贈り物だった。
そしてクリスタベルは故郷へと去り、私もまたそのブローチのお陰で悪夢を見ることはなくなった。それから彼女とは会うことなく成人し、いつの間にか名前も忘れてしまった頃、私はあの湖畔にてクリスタベルと再会したのだ。今度は本当に私が人ならざるものとなって。
あの夜、私がクリスタベルの故郷で吸血鬼となったのも、そして彼女と再び出会ったのも、今では与えられた運命だったのだと思っている。もしかしたら少女時代に彼女からもらったサファイアのブローチが私と彼女を引き合わせてくれたのかもしれない。
たった一度だけ幼いころに二人で遊んだことを思い出したのはもっと後になってからだったけれど、それもこのブローチがきっかけだった。過去と今とを繋げてくれた。
私はブローチを胸に留めた。今夜は万聖節を明日に控えた夜。いつの間にかその夜はハロウィンと呼ばれるようになったらしい。街中では大人も子供も喜びの声を上げ、様々な怪物たちの姿に仮装して楽しんでいる。だがその中には、本物の人ならざるものが紛れ込んでいることもある。
私はなるべく背の高い建造物の上に立ってあの男を待っていた。吸血鬼オルロック伯爵。盗賊団ノスフェラトゥを率いる純血種の吸血鬼。あの男は人の命など何とも思ってはいない。だからこの祭りの夜に人の多い街中で戦うのは危険だ。
彼の狙いはこのブローチ。私がこれを身に付けている限り、彼はこの場所に来るしかない。
私は胸に留めたブローチに触れた。このサファイアだけは絶対に渡さない。今は亡きクリスタベルとの思い出が形となったものとして、私にとってこんなにも大切なものはないのだから。
夜の街は賑やかだった。ガス灯が色とりどりに仮装した人々を照らし出し、この日ばかりは夜まで外に出ることを許された子供たちの笑い声が響いている。くり抜かれ、鬼火の姿を模した蕪には炎の明かりが灯されている。あれもまた私が子供の頃に恐れたウィル・オー・ザ・ウィスプの一つだったろうか。今はもう、私自身が魔物となってしまったけれど。
だけれど私はジェラルダインとしての心を持ったまま魔物となった。人は死に、魔物となっても誰かのために生きていける。クリスタベルはそれを私に教えてくれた。
だからこのロンドンの人々を血に染めることは、この私が許しはしない。
やがて月光を背に黒い羽を広げた白い肌の吸血鬼が屋根の上に降り立った。オルロックは鋭く伸びた牙を鳴らし、私に向かって霊ピアを抜いた。
「ご機嫌如何かな? ジェラルダイン嬢」
「お前のせいで最悪よ」
私は背から槍を抜いた。そのさっ先をオルロックに向ける。
私が振るった槍はその禿頭の吸血鬼が握るレイピアを弾いた。刺突を攻撃の中心とするために細身に作られたその片手剣は、吸血鬼オルロック伯爵の手を離れて屋根に突き刺さった。
「そのようなただの宝石が、君にとってはそんなにも大切なものなのかね、ジェラルダイン嬢」
オルロックはその長く尖った耳を微かに動かしながら私に問うた。彼の深く窪んだ眼孔の底に光る眼は、私の右胸に留めたサファイアのブローチを見つめているようだ。
「ええ、私にとっては何物にも変えられない大切なものよ。貴様には思い出の価値なんて分からないのでしょうけれど。それになぜ貴様こそただの宝石に過ぎないこれを欲しがるのかしら?」
私が一歩踏み出すと、オルロックが二歩下がった。その両手の指からは鋭く生白い爪が伸びているが、それではこの槍に対抗することはできないことは分かっているのだろう。
「知れたこと。それは貴女という存在が身につけているからこそ価値があるのだよ。最も古い始祖の吸血鬼の生き残りであり、伝説の魔物であるジェラルダインが常に身につけているブローチ、貴女そのものがそのサファイアを唯一無二のものとしている。だから私はそれが欲しい……!」
オルロックの言葉が終わらぬうちに、その背から翼のようなものが出現した。鳥のものというよりも蝙蝠のものに近い羽毛のない翼。しかしあれはどうも元々オルロックの体の一部であったものではないようだ。オルロックの魔力に羽が完全には馴染んでいない。
大方、あの羽も他の魔物から奪ったものなのだろう。私は不恰好な蝙蝠のような吸血鬼を見上げた。
元来彼は鼠を眷属とする吸血鬼。あの翼は生まれ持ってその背に生えていたわけではない。だからこそ歪に見える。
そしてその吸血鬼としても不気味な姿は、自らの体を素材に度重なる実験を行い続けた結果だと聞いている。それ程までに彼には欲っするものが多いのかもしれない。彼の過去は知らないが、己が身を犠牲にしてまでも満たされぬその欲があるのだろう。彼もまた、過去に縛られる吸血鬼。
だがこのサファイアもまた私の過去の象徴だ。彼の言う通り、この宝石は私が持ってこそ価値がある。クリスタベルを知る私だからこそ。私は槍を構え、オルロックの攻撃に備えた。
だがオルロックは溜め息を吐くと、首を横に振って言った。
「しかし今宵は退き時のようだ。また近く貴女を求めよう、ジェラルダイン嬢」
「何度来ても同じよ。鼠は蛇に食われるものでしょ?」
私の足元で、私の魔力によって生成された青い蛇たちが鎌首を上げ、オルロックに牙を剥き出しにした。オルロックは不快そうにそれを一瞥すると、翼を羽ばたかせて夜の闇に消えた。
私はオルロックの魔力が辺りから完全に消えたのを確認して槍を下ろし、そして右の胸に留めたブローチを外して掌に乗せる。彼がこのブローチを欲する理由は分かった。だからと言ってその欲望に応えるつもりはない。
吸血鬼とは元来欲深い魔物だ。どんな吸血鬼でも願いや望みのひとつやふたつはある。特に元は人間だった吸血鬼は、再び青い空の下を歩きたいとそう望むものも多いと聞く。
私は夜のロンドンに息を吐き、そして一人呟いた。
「吸血鬼にとって青空はどんなに望んでも手に入らないものだけれど、私には貴女がくれたこれがある」
もうクリスタベルには会えないけれど、それでもこのブローチは彼女とともに生きた証、彼女とともに晴れた空の下を歩いた証だ。その価値は、私だけが分かれば良い。
サファイアのブローチは私のその気持ちに応えるように、月光を反射して蒼く美しく煌めいていた。