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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第二章 血は命の水だから
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最終節:命の猛攻、血の記憶

最終節:命の猛攻、血の記憶


 灰色の人狼の巨体が月下に踊り、そして紅の吸血鬼の姿が月光に舞う。

 ベルトランがクリスチーナに向かって伸ばした右腕を彼女は両足を曲げて避け、そして直後左足を頭上に向けて真っ直ぐに振り上げた。紅いブーツの底がベルトランの顎を下から打つ。

 がちりとベルトランの上下の牙がぶつかり合う音が響き、そして立て続けに放たれたクリスチーナの後ろ回し蹴がベルトランの横顔を叩き、下顎を砕いた。

 もう最初に戦った時とは違う。彼女の体にはレオンの血が流れている。彼が与えた命の水が、クリスチーナの中に魔力として溢れている。負ける気など微塵もしなかった。わたしは今、レオンとともに戦っている。

 砕けた下顎がだらりと垂れ下がったまま、ベルトランは尚も彼女に向かって来る。クリスチーナはその怪物に対して両腕を左右に開げた。同時に吸血鬼の開いた掌の十本の指から鋭い爪が伸びる。牙を剥き出しに、吸血鬼は血に塗れた狼男の突進を待ち構える。

 クリスチーナの肩にベルトランの上顎の牙が突き刺さるが、クリスチーナもまたベルトランの両肩に自身の爪を突き立て、更に狼男の固い毛皮に牙を食い込ませてその首の肉を噛み千切った。その痛みによりベルトランがクリスチーナから牙を引き抜く。吸血鬼は狼男の胸を両足で蹴り、後ろに跳んで距離を取った。

 クリスチーナは口からベルトランの肉を吐き出すと、紅い瞳でベルトランを睨む。しかしその視界が滲み、クリスチーナは目を瞬く。

「お前なんかに……、お前なんかに……!」

 クリスチーナの瞳が紅く滲んだ。その後悔を振り切るようにクリスチーナは片足を軸に体を左に回転させ、右脚の脛でベルトランを蹴り飛ばした。ベルトランの左腕の骨が潰れ、その裂けた口から苦痛の呻きが漏れた。

「ソフィーを、返せ……」

「黙れ! お前が奪ったものはもう、戻って来ないんだ!」

 ベルトランが右腕をクリスチーナに向かって振り下ろした。だが吸血鬼はその腕を自らの両手で掴むと、相手の勢いを利用して肩越しに投げ飛ばす。

 ベルトランの体が宙を舞い、地面に落ちた。レオンから受けた傷もあり、もうその体はもうぼろぼろなのだろう。着地することも儘ならず、また立ち上がる動作も緩慢だった。だがベルトランは尚も狂気をその眼に湛えてクリスチーナを睨んでいる。

 だがあの男が作り出した恐怖も悪夢も狂気も、今夜が最後だ。

 ベルトランが立ち上がり、そして首を上に向けて月に吠えた。それは闇夜に轟き、月下を震わせる。だがクリスチーナもまた走り出しながら叫び声を上げた。喉を切り裂くような、その感情を全て吐き出す絶叫だった。

 クリスチーナにベルトランの右手の爪が迫る。クリスチーナはその一撃に左の踵を振り下ろして腕ごとへし折ると、右足の後ろ回し蹴りをベルトランの首に叩き付けた。体中の魔力を右脚に集中させて放ったその一撃は、ベルトランの首を逆方向にまで捻じ曲げた。

「ソ……フィ……」

 ベルトランの口から掠れた声が漏れ、やがて彼の体は倒れた。その体はもう再生することはなく、人の姿へと戻って行く。毛は抜け落ち、骨格は変形し、やがて人間ベルトランの死体だけがそこには残された。彼の体から魔力が消えて行くのが分かる。魔力がなくなった今、もうその傷が再生することもないだろう。

 パリを襲った狼男の恐怖は、この夜に終わりを告げた。一人の男の命と引き換えとして。

「仇は取ったよ、レオン」

 クリスチーナはその死体を見つめ、そう呟いた。そしてレオンの亡骸の側へと歩み寄ると、彼の上半身をそっと抱き寄せた。その目は閉じられたまま開かず、その口がもうクリスチーナを呼ぶこともない。その事実が改めて胸を締め付けた。

 彼の傍にはベルトランに折られたのであろうレオンの牙が落ちていた。クリスチーナはそれを拾い上げ、大切そうに胸に右の掌に握った。

 パリの人間たちはこの町を襲った狼男のことも、密かに町を救った英雄の名前も知ることはないのだろう。だがクリスチーナは忘れない。レオンの血が、命がその体に流れ続ける限り、彼の記憶はクリスチーナから消えはしないだろう。

 人狼の亡骸を抱えた吸血鬼の姿は、やがて月の光の中に消えた。




 レオンの亡骸は、あの後パリ郊外の森の中に埋めた。本当は彼の生まれたスペインの村まで運びたかったが、それは難しかった。その村の名前を聞く前に彼は逝ってしまったから。それに彼が故郷に帰ることを望んでいるのかも分からなかった。

 それからクリスチーナはパリを出て、また一人で旅を始めた。レオンの折れた牙を一つ持って様々な景色を見た。十年以上の間、また彼女はそうやって一人で過ごした。レオンとの別れのせいで、誰かにもう一度近づこうという思いが沸いてはこなかった。

 そして時代は一九世紀の終わり頃、クリスチーナは英国はロンドンの町を歩いていた。近頃この町で、遠い国から大英博物館へと運ばれて来たある太古の人間の死体が蘇り、人々を殺して回っている、そんな噂を聞いた。

 それはあのベルトランの事件を思い出させた。人々の知らないところで自分やレオンと同じ魔物が不幸を振り撒いている。それをどうしても放っておけなかった。

 そんなある夜のことだ。クリスチーナはそのロンドンにて、青い槍を握った同族と出会った。静脈が浮き出る程の白い肌に、金色の髪。そして遠い記憶の中に残る晴れた空を思い出させる蒼い目をしたその吸血鬼は、彼女に対しジェラルダインと名を告げた。

 それがクリスチーナとジェラルダイン、紅と蒼の二人の吸血鬼の出会いだった。



異形紹介


・クリスチーナ

 1911年の吸血鬼小説『血は命の水だから』(原題『For the Blood Is the Life』、F・マリオン・クロフォード作)に登場する女性吸血鬼。その容姿は青白い顔に真紅の唇、そして漆黒の髪に猟犬のようにしなやかな体と描写され、また悪魔にも劣らないほど口が悪いと書かれている。

 元々はイタリアの海岸に近いある村で生まれ育ったただの人間だったが、盗人二人が盗品を埋める現場を目撃してしまった故に彼らに殺され、埋められたことで吸血鬼として蘇る。人ならざるものとなった彼女は生前片思いしていた男、アンジェロを誘惑し、毎夜その血を啜り続ける。だが最後には村の人間たちによって眠っていた土を掘り起こされ、胸に杭を突き刺されて死亡する。

 だがその後も彼女は完全に滅びることはなく、埋められた塚の上に靄のような幻の存在として現れるようになった。


 『血は命の水だから』は作者の死後刊行され、様々なアンソロジーに収録されたものの日本語訳されたものは少なく、現在では絶版となったアンソロジーの中でしか読むことができない。またタイトルは『血は命なれば』と訳されている場合もある。

 女性吸血鬼ものの古典の一つであり、海岸の塔からクリスチーナの眠る塚を眺めるある人物の視点を通して全編の物語が語られるため、かつて愛した異性への吸血衝動が描かれるが、小説内ではクリスチーナの心中は明かされない。そのため彼女がアンジェロを襲ったのは愛憎どちらによるものなのか、またどちらも理由であったのかは分からない。この物語が語られる舞台となった南イタリアはボリカストロ湾の岬の塔は、作者クロフォードが執筆のために使っていた塔がモデルとなったとも言われている。

 

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