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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第二章 血は命の水だから
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第八節:血は命の水だから

第八節:血は命の水だから


 ベルトランは夕暮れの下、憎きものたちの匂いを嗅ぎ取った。昨夜自分を襲ってきた二人の化け物。自分の邪魔をする怨敵たち。そのうちの一人が発していた獣の匂いがそれだった。

 ベルトランは遠い昔に破壊されたまとまらない思考の中で、時間をかけて意味のある結論を導き出す。きっとやつらがソフィーを攫ったのだ。この手の内から奪い去ったのだ。ベルトランはそう思い込んでいた。彼にとっての現実とは彼の心が映すものであり、彼にとってソフィーがレオンとクリスチーナによって奪われたという考えは既に事実となっていた。

「ソフィー……、今助けてあげるから……」

 虚ろな目が焦点の定まらぬまま怒りに染まる。人々が奇異の視線で彼を見つめているのも気に留めることなく、襤褸を纏ったその体が前屈みの姿勢となり、ただ一つの目的に向かって疾走を始める。




 月が昇ろうとしている。レオンは人気のない路地裏で羽織っていた黒いコートを脱ぎ捨てた。相手は一目散にこちらに向かっている。やはりベルトランもまた、レオンを狙っているようだ。目に見えずとも、強い敵意が近付いて来るのが手に取るように分かった。

 ここならば他の人間を巻き込むこともないだろう。だから全力で戦える。レオンは全身に魔力を行き渡らせようと意識を集中すると、体の所々に痛みが走った。変身に対する拒否反応だろう。

 レオンは思い出す。かつてもそうだった。家族に、恋人に愛されている時だけは、彼は満月の夜でも変身しないで済んだ。人を傷付けなくてよかった。今回はクリスチーナと出会いがその現象を引き起こそうとしているのだろう。やはり以前と比べると魔力の行使は難しくなっている。だがそれはクリスチーナと出会った証でもある。だからこれで良い。それにまだ変身は、できる。

 レオンは生まれて初めて、自分の与えられた呪いの力に感謝していた。クリスチーナを守るためならば、どんな力だろうと呪いだろうと使ってやるつもりだった。

 人の姿をしたベルトランが路地裏の入り口に現れた。淡い月光がベルトランを照らしている。レオンは歯を食いしばり、ベルトランを見つめた。

「ソフィーは、どこだ……!」

「すぐに会わせてやる」

 二人の人狼は同時に体を変化させた。灰色と薄茶色の狼男が対峙する。黴臭い香りが漂うその場所で、彼らは互いの殺意を嗅ぎ取った。

 ベルトランが二本の足で地面を蹴った。直後、レオンもまたベルトランに向かって走り出した。




 再びクリスチーナが目を覚ました時、辺りは既に夕闇に覆われていた。月は既に高く昇っているようだ。

「……起こせっつったのに」

 悪態を吐きながらクリスチーナはベッドから起き上がる。頭を書きながら辺りを見渡すが、レオンの姿はなく気配も感じない。

 買い物にでも行ったのだろうか。もう夜が来ているというのに。そう思いながら立ち上がり、シャツを脱ぐ。傷はもう塞がっているようで、白い布を赤く染めた血は既に乾いていた。クリスチーナはその布を剥ぎ取ると、濡らした布で体を拭いた。

 しかしレオンはどこへ行ったのだろう。ベルトランはもう活動を開始しているかもしれない。陽は落ちているし、外に探しに行こうか。そう思いながらも、彼女はある不安に苛まれる。

 まさか自分を置いてこの町を去った、なんてことはあの男の性格からして考え辛い。短い付き合いだがそれぐらいは分かる。しかし一人で戦いに行ったという可能性は十分に考られた。レオンのことだから、わたしを巻き込むのはやはり嫌だとかそういう理由で。

 そう思うといてもたってもいられなくなった。クリスチーナは急いで新しいシャツを着て、更にその上に紅色のロングコートを羽織った。そしてドアを抜け、パリの夜の下、レオンの気配を探し始めた。




 レオンの爪がベルトランの肩を抉った時、ベルトランの爪はレオンの右胸部に突き刺さっていた。レオンは苦痛の声を漏らし、後ろに体を引いてベルトランの爪を引き抜いた。

 二体の人狼はどちらも傷だらけだった。爪が、牙が体中に生々しい暴力の痕跡を残し、固い毛は血に濡れていた。実力としてはほぼ互角。だが魔力の差か、ベルトランに比べるとレオンは傷の治癒が遅い。

 それでも負けられなかった。レオンを殺せば、この狼男はクリスチーナを探し、殺そうとするかもしれない。この男に彼女を傷付けさせてはならない。それだけが今のレオンの願いだった。レオンは残り幾許もない魔力を全身に行き渡らせる。

 ベルトランが跳躍した。レオンは両足で地面を踏みしめ、飛び掛かって来たベルトランを両手で止めた。そのまま爪をベルトランの両腕に、牙を首筋に食い込ませ、その巨体を持ち上げて近くの壁に向かって叩き付ける。

 煉瓦の壁とともにベルトランの骨が砕けた感触があった。しかしベルトランは痛みさえも味わうように裂けた口を歪ませて笑うと、体を捻ってレオンの腹部を蹴り上げた。

 ベルトランの足の爪がレオンの腹を裂く。それは体の内部まで突き刺さり、彼の内臓を抉った。レオンの牙の間から赤い血が滴り、足元を汚す。

 その時だった、レオンは夜の向こうに自分の名を呼ぶ女の声を聞いた。もう月は昇っている。彼女がここに来るのは時間の問題だった。

 それが分かっているからこそ、彼はそこから退くことができない。

 人を傷付けることしかできなかった生まれ背負ったこの呪いを、誰かの為に使えたのならどんなに良いだろう。そう考えて始めたのがベルトランの捜索だった。魔物である自分の力の使い道、それは人を襲い続ける同じ魔物に向けることしか思いつかなかった。それによって一人でも多くの人間の命を救うことができればと、そう思っていた。

 でも今はそうではなかった。たった一人の命、同じ魔物であるクリスチーナを救いたかった。彼女だけを守りたい、それが狼男レオンが見つけた願いだった。

「お前には、負けられないんだ!」

 レオンは叫んだ。そして振り抜いたその右腕が、ベルトランの喉を引き裂いた。肉と血が飛び散り、削れたベルトランの首の骨が露わになる。だがその最後の一撃と同時に、ベルトランの左腕がレオンの胸を貫いていた。

「レオン!」

 クリスチーナの声がまた聞こえた。更に彼女の足音が聞こえるぐらいに近くなったとき、ベルトランの体が後ろに倒れた。その体は動かなかった。やっと倒したんだ。これで、クリスチーナは傷付かなくて済む。レオンは一人笑った。

 クリスチーナとの約束はもう守れそうになかった。彼女は怒るだろうか。それが心残りだったけれど、だけど駆け寄って来るクリスチーナの姿が見えたとき、それだけで何もかもが救われたように思った。

 体から力が抜けて行く感覚があった。先ほどまで体中に響いていた激痛も遠くなって行く。視界も霞み始めた。だがレオンは、消え行くその感覚の中で、今までにない満足感を覚えていた。

「僕は、彼女を守れたんだよな……」

 レオンは安堵して静かに目を閉じた。




 クリスチーナがその路地裏に辿りついた時、その眼が捉えたのは背中の中心に大きな穴を開けたレオンの後ろ姿だった。その体が前方に倒れようとするのを、クリスチーナは駆け寄って抱き留めた。

 レオンの息はか細く、そして傷口から溢れた血がクリスチーナの青白い腕を真紅に染めようとしていた。レオンの体もまた、人狼の姿から人の姿へと少しずつ変化して行く。

「レオン! レオン! あんた、どうして……」

 レオンの手がクリスチーナの頬に触れる。その指先は、少しずつ体温を失って行くようだった。レオンは薄く眼を開いた。だがその目はもう見えていないのだろう。瞳がクリスチーナに定まることはなかった。

「クリスチーナ……」

 レオンは薄く笑みを浮かべた。そしてその色を失って行く唇を微かに動かした。

「僕は、初めて自分が人狼で良かったと思えた……。君のおかげで……、君を守れたのだから、僕の生きて来たこれまでにきっと意味はあったんだって、そう思えた……」

 レオンは最後に微笑みを見せて、そしてその瞳が閉じられた。

「ありがとう……」

 そして、クリスチーナの頬に触れていた手が落ちた。

 クリスチーナは目を見開き、そしてレオンの体を揺する。だが彼のまぶたは閉じられたまま、開かれることはない。その胸には大きな穴が空き、そしてそこから止めどなく血が溢れ出して行く。彼の命が全部流れてしまう。どんなに掬っても零れてしまう。

 クリスチーナは声を滲ませ、その体を抱き寄せた。

「一緒に、旅でもしようって約束したじゃない……。女の子との約束を破るっていうの。ねえ」

 クリスチーナの紅い瞳は涙に濡れる。レオンの体は動かない。その四肢は堅くなり、そしてその口が吸血鬼の言葉に返事を返してくれることもない。もう彼を救う術をクリスチーナは持っていなかった。

 その後ろで、灰色の狼男の体がぴくりと動いた。レオンをその手に掛けた狼男はまだ生きている。それを感じ取った時、クリスチーナの瞳に悲しみと同時に怒りが宿る。例えようのない熱い感情が、クリスチーナの心を、体を支配する。

 クリスチーナは片手で両目を拭った。そして震える唇をそっと動かし、動かないレオンに語り掛ける。

「レオン、あんたの血は忘れない。わたしの為にあんたがくれた血の味を。だって、血は命の水だから……! あんたがここにいたって証なんだから……!」

 彼は確かにクリスチーナの前に立ち、そして笑っていた。そしてその優しさからあの温かな血をくれた。

 生けるのの命は血の中にある。それをレオンは分けてくれたのだ。そしてその紅い命の水は吸血鬼という魔物の力の源となる。レオンの血は、命は、確かにクリスチーナの中に流れ、そして彼女の一部となっている。

 クリスチーナはそっとレオンの亡骸を地面に横たえ、そしてゆらりと立ち上がった。その背後に獣が立ち上がる気配がある。クリスチーナのは拳を握り、物言わぬレオンに告げた。

「ここで待ってて、あいつとは、わたしが決着をつけてやる。あんたの戦いは、絶対に無駄にしない」

 紅い吸血鬼に迫る狼男の影。だがクリスチーナは振り向き様に右足を地から浮き上がらせ、渾身の力でベルトランの頭部を横から蹴り飛ばした。

 ベルトランの体が近くの街灯にぶつかり、それをへし折って大地に叩き付けられる。体のどこかが壊れるような音がした。しかし口から血を滴らせながら、狂気の狼男はまた立ち上がった。レオンとの戦いによりその体は満身創痍の筈なのに、その眼から闘争の意志は失われていない。だがレオンが与えた痛みは着実にあの化け物にも響いている。

 その虚ろな瞳の動きが止まり、吸血鬼に視線が定まる。クリスチーナもまた紅い瞳で睨み返し、一歩前に踏み出した。燃える紅の瞳は憎き人狼をはっきりと捉えている。

「悪いけど、わたしはお前が地獄の底へ逃げようとも許しはしない」

 クリスチーナの表情は怒りに歪む。ベルトランが姿勢を低くし、狩りの前の肉食獣のように荒く息を吐く。だがクリスチーナは一歩も退くことなく、その人狼に向かって吐き捨てた。

「さあ掛かって来な、駄犬」



異形紹介


・レオン

 1961年のイギリス映画『吸血狼男』(原題『The Curse of the Werewolf』)に登場する狼男。18世紀後期のスペインを舞台にしたこの映画で、レオンは口の効けない少女が地下牢に地下に幽閉されていた浮浪者に凌辱されたことで身籠った子供とされる。出産とともに母は死亡し、レオンは母を看取ったコレルド夫婦に育てられることとなる。

 レオンは少年のうちから村の動物を無意識に殺し血を啜るなど人狼としての衝動を見せるようになるが、その呪い、誕生の瞬間に獣の霊が憑いたことによってもたらされた人狼の呪いは、愛のみによって救うことができるものでもあった。愛によって獣の霊にレオンの魂が打ち勝つことができるのだ。そしてコレルド夫婦に愛情を注がれて育ったレオンは、人狼への変身の発作を起こすことなくやがて青年へと成長した。そして彼は生家を離れ、働き始めたワイン工場の工場長の娘、クリスチーナと恋に落ちた。

 しかしある満月の夜、レオンは再び人狼の呪いを発動させることとなる。酒場にいた女に誘惑された際、その肌を誤って傷付けてしまったことで血を嘗めた彼は、人狼と化して初めての殺人を起こす。そしてそれを切っ掛けとして、彼は逮捕されてしまう。

 そして牢屋に入れられたレオン。彼は自分の存在に絶望し、自らの死刑を望むが聞き入れられない。その中で満月に照らされた彼は、人狼に変身してしまう。その後村中を暴れまわった彼は、恋人クリスチーナの前で銀の弾丸に撃ち抜かれ、その生涯を終える。


 映画ではオリバー・リードが演じた。先に紹介したガイ・エンドアの『パリの狼男』を原作とした映画だが、設定には大きな違いが見られ、舞台もフランスからスペインに変更されており、また狼男の名前はベルトランからレオンに、ヒロインの名前はソフィーからクリスチーナに変えられている。また狼男の設定にも大きな違いがあり、月の満ち欠けに関わらず変身が起きていたベルトランに対し、レオンは満月に大きな影響を受ける他、人の愛では変身が止められないことを明示されるベルトランに対し、レオンは家族の愛で変身することなく成長する、満月の夜であっても恋人であるクリスチーナの側にいることで変身しないで済むなどの描写が見られた。

 この愛が呪いに対抗するという概念は欧州の童話等にて広く見られ、有名なものでは『美女と野獣』の野獣に姿を変えられた王子の呪いを解くのは主人公ベルの愛である。ただし人狼譚においてはこの愛による呪いからの解放のモチーフはあまり見られないため、珍しい題材と言えるかもしれない。

 多くの狼男を題材とした映画の主人公たちと同じように、レオンもまた自分に降りかかった制御できない呪いに悩む人間であった。そしてそれが取り返しのつかない悲劇となって彼を襲うこととなったのだ。『吸血狼男』は悲しき魔物の生を描いた狼男映画の傑作である。

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