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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第二章 血は命の水だから
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第七節:誓い

第七節:誓い


 意識が戻って来てまず感じたのは、腹部から腰部にかけての鈍い痛みだった。思わず顔をしかめ、クリスチーナは薄く眼を開く。見慣れた空間がそこに広がっている。

 どれだけの時間眠っていたのかは分からないが、部屋の窓に下げた布の外には陽光が差しているようだった。どうやらここは自分の部屋のようだ。クリスチーナは痛みに体を慣らすように、固いベッドからゆっくりと体を起こした。

 意識を失った自分を誰かがここに運んでくれた。傷口に手を持って行くと、そこに布が巻いてあるのにも気が付いた。色は自分の血で赤黒く変色してはいるが、元は白い布だったのだろう。

 クリスチーナは部屋の外からやって来る気配に顔を向けた。そこには予想通り、レオンの姿が現れる。

「目が覚めたか。傷は痛まないかい?」

「平気よ。少し痛むけど。運んでくれてありがと」

 そういうと、レオンは首を横に振って口を開く。

「いや、礼を言うのはこちらだ。僕を庇わせてしまって申し訳ない。そんな傷まで負わせてしまって」

 レオンの言葉にクリスチーナは気にするなと掌を振った。自分で好きにやったことだ。気に病まれるとクリスチーナとしても気が引けた。

「あんたこそ大丈夫? 傷はないの?」

「あのぐらいの傷ならすぐに治るよ。僕だってただの人間ではないんだ。しかし吸血鬼は人狼ほど治癒能力がないのか。それとも、その傷が塞がらないのは何か他に原因があるのかい?」

 レオンが尋ねる。本気で心配そうな表情をしているから馬鹿にしている訳ではないのだろう。クリスチーナは少しの間逡巡した後、正直に話すこととした。

「ずっと血を飲んでないからよ。怖いのよわたし、血を飲むのが」

 クリスチーナは苦笑してそう答えた。彼女は故郷を出てからこの数年間、ほとんど人の血を啜ったことがなかった。再びその真紅の法悦に再び染まってしまうのが怖かったのだ。また吸血鬼としての本能に支配されてしまったら、もう戻れないかもしれない。

 そう思うと相手がどんな悪人であろうとも、その首に牙を突き立てることができなかった。空腹は肉屋で手に入れた生肉の塊に残った血を啜ることで満たした。味など関係のない、ただ腹を満たすだけの行為だった。

「血を飲めば、その傷も治るのか?」

「多分ね。血液は吸血鬼にとっての命の源だから。でも大丈夫よ、血なんて飲まなくても月の光を浴びればそのうち治るわ」

 まだ痛みは強いが、傷は少しずつ塞がり始めている。陽が沈めば魔力が回復するから治癒速度も上がる。それで良い。それでまだ戦える。

 だがそんなクリスチーナを前に、レオンは無言のままに近くに置いてあったナイフを手に取り、その右腕に左手に握ったナイフの刃を当てた。その毛深い腕に一筋に傷が現れ、そして血が流れる。

「ちょっとあんた、何を……?」

「血が必要なら、僕の血を飲めば良い。それで君の傷が治るならお安い御用だ。それに……」

 血が一滴床に零れた。レオンは真っ直ぐにクリスチーナの眼を見つめる。

「この血によって君がまた我を忘れてしまうならば、僕が君を止めてやる。だから安心して飲めば良い」

 赤い血の匂いがクリスチーナの鼻を通して能を刺激し、感覚を麻痺させる。すぐにでもその血を味わいたい衝動を堪え、クリスチーナは一度レオンを見た。

「本当に、止めてくれる?」

「信用してくれ」

 レオンが微笑した。クリスチーナは小さく頷き、そしてそっとレオンの傷口に口を近付けた。舌を伸ばすと温かな液体が喉に流れ込み、紅色の唇が赤い艶を帯びる。

 レオンの血はクリスチーナの口内を甘美に満たした。血が体を巡り、そして魔力となって体を癒す。それは傷ついた彼女の体だけでなく、彼女の心に開いた穴をも埋めてくれるようだった。

 クリスチーナはレオンの腕から唇を離した。そのすぐ直後に人狼である彼の傷口は痕もなく塞がった。

「……ありがと」

「止める必要はなさそうだね」

 レオンの微笑みに、クリスチーナは照れたような笑みで返した。彼女の中にそれ以上の吸血欲求は沸いて来なかった。もうレオンの首に牙を潜り込ませる恐れはなさそうだ。

「お陰で今夜は全力で戦えそう」

「まだ無理はしない方が良い。少し話でもしよう」

 レオンがクリスチーナの隣に座った。彼の重さが加わって、少しだけベッドが軋んだ。




 それからレオンとはたくさんの話をした。クリスチーナは己の過去を話した。余所者として育った子供の頃のこと、魔物と化し、その本能に逆らうことができず大切な人を傷付けてしまったこと、そしてそれをきっかけにして、故郷の村を捨てるに至ったこと。今まで誰にも話せず、溜め込んでいたものを吐き出した。同じ魔物の呪いに苦しんだ経験がある彼にだからこそ、色々なことが話せた。

 レオンもまた自分の話をしてくれた。スペインにて狼男の呪いを背負って生まれ、ずっとその力を制御することもできずに生まれてきたこと自体が間違いだったのではと悩み続けてきたこと。村で一人の女性と恋をしたこと。だがある満月の夜にまた自分自身を失うこととなり、そして村人たちに追われ、逃げるようにして村を離れたこと。

「本当は、僕はあの時に死ぬべきだったんだと思う。でも駄目だった。僕は何度も自分の死を願った。だけど、自分で命を絶とうとするといつも人狼としての僕が現れてそれを邪魔するんだ。右手に銃を握り銀の弾丸で頭を撃ち抜こうとしても、毛の生えた僕の左腕がそれを押さえ付ける、といったようにね。だから僕はあの満月の夜、村の人たちが僕を殺してくれることを望んだ。でも駄目だった。僕はただ故郷を逃げて、また生き延びてしまった」

 レオンは自分が今生きているという事実そのものを後悔している。それは酷く悲しい生き方のように思えて、クリスチーナは彼の手に自分の手を重ねた。

「男なんだからくよくよしない! 良い? 魔物だからってこの世界に生まれてきたことそのものが罪になる訳ないでしょ。それじゃあ一度死んで魔物になって生き返ったわたしの立つ瀬がないわ。それにさ、少なくともわたしはあんたがここにいて良かったと思ってる。きっとあんたの恋人だったっていうその女の人もそうだよ。だからもっと胸張って生きなよ。ベルトランと違って、あんたはまだ自分を失っちゃいないんだから」

 クリスチーナはそう笑った。これから進む道は決まってはいない。自分の力で選べるのだとクリスチーナは思う。

「この事件が終わったら、一緒にどこかを旅でもしようよ。わたしがいればあんたが不本意に変身しちゃっても抑えられるしさ。だから死ぬことばっかり考えないで前向きに生きよう。魔物だからって、生きて行くことを楽しんじゃいけないなんて道理はないんだから」

 それは心からの言葉だった。我々は魔の物だ。だけど人と変わらぬ心を持っている。それで十分だと、クリスチーナは改めて自分以外の魔物であるレオンを見てそう考える。自分たちにだって、悩み苦しみながら生きて行く以外の生き方があるはずだ。

「そうだね。君の言う通りかもしれない。ベルトランを倒したら、一度何もかも忘れて旅に出ようか。僕も君と一緒なら見てみたい景色がたくさんある」

 レオンはそう言って優しげな笑みを見せた。クリスチーナも首肯する。彼も自分も、今まで自身が魔物であることを恐れて世間から隠れるようにして生きていた。魔物同士二人一緒ならもっと前向きに勧めるはずだと、そんな希望が持てた。

「約束よ。だから、ベルトランを倒す前に死なないこと」

「分かったよ。今夜にもまた彼は現れるかもしれないから、君はもう眠ってくれ。狼男は執念深いからもしかしたらベルトランは僕たちを狙っているかもしれない。夜になる前に体は万全にしておこう。君にはもう少し睡眠が必要だ」

 クリスチーナは頷いた。あの狂気の狼男もまた、かつては自分たちのように魔物として生まれた己の運命に悩んだのだろうか。その先に迷い込んだのがあの狂気の渦だったのかもしれないと思う。

 レオンがベッドから立ち上がった。もう眠れということだろう。クリスチーナはレオンを見上げる。

「寝込みを襲うのやめてよ狼さん」

「そんなことはしないよ。さあ、ゆっくり休んでくれ」

 冗談めかしてクリスチーナが言うと、レオンはまた真面目な顔で答えた。クリスチーナは小さく笑い、そしてベッドの上に寝ころんだ。そしてレオンの方を見て言う。

「月が昇ったら起こしてね」

「了解だ」

 固い枕に頭を押し付けていると、すぐに瞼が重くなって来た。傷の痛みは大分軽減されたが、まだ少し痛む。しかしこの傷も眠りから覚める頃にはもう塞がっていることだろう。

 クリスチーナは久々に安らかな眠りに落ちた。




 クリスチーナが眠っているのを確認して、レオンは静かに立ち上がった。そして彼女を起こさぬようにそっと部屋の扉に手を掛ける。そしてクリスチーナほ方を振り向き、静かな声で言う。

「やっぱり、君を危険な目には合わせられない。君が僕に近づいてくれればくれるほど、僕にとって君は大切な人になってしまう」

 レオンはかつての恋人にクリスチーナを重ねた。彼女もまた、自分が背負った呪いのせいで不幸にしてしまった。だからもう大切な存在が自分のせいで傷つくのを見たくない。それに彼女を大切だと思えば思うほど、ベルトランとの戦いは不利になる。レオンはクリスチーナから目を離した。

 レオンの背負った人狼の呪いは、誰かを愛し愛されるほどにその力を失う。

 昔からそうだった。童話の中で蛙や野獣の姿に変えられてしまった男たちが愛する女の口づけで人の姿を取り戻したように、変身の呪いの魔力は愛といった形のない力によって阻まれる。それは霊力と呼ばれる力によるものらしいが、レオンは詳しい原理は知らなかった。

 だからこの力が使えるうちに、ベルトランとの決着は自分でつける。クリスチーナは怒るだろうけれど、元々この戦いに彼女は関係ないのだ。怪我を負わせてしまったのも彼女の同行を許した自分の責任だ。

 クリスチーナがともに戦ってくれると言ったとき、戸惑いとともに喜びを感じたのは確かだった。魔物として隣に立ってくれる存在は今までいなかった。故郷を捨て、何年も孤独に生き続けていた彼にとって彼女の提案は本当にありがたいものだった。

 クリスチーナもまた自分と同じような記憶を持っていた。魔物としての己に苦悩し、故郷を捨て、孤独に生きて来た。似通う過去が自分たちを引き合わせたのかもしれない。

 レオンは外に出て後ろ手に部屋の扉を閉じた。月はまだ昇らないが、ベルトランの匂いは覚えている。人の血肉と腐臭が混ざったあの匂いなら、この人間の姿のままでも追える。

 レオンは戦いを終わらせるべく、前を見据えて歩き出した。



※ 今回の解説にはガイ・エンドアの小説『パリの狼男』の内容について触れておりますので、未読の方はご注意下さい。


異形紹介


・ベルトラン・カイエ

 ガイ・エンドアの小説『パリの狼男』(原題『THE WEREWOLF OF PARIS』)に登場する狼男。フランスの田舎にて少女ジョセフィーヌが使いに出された教会にて神父に襲われ、その結果として妊娠し、クリスマスの夜に生まれた子供とされる。幼いころから獣じみた行動を見せる少年として描かれ、家畜を襲うなどして育ての親であるエマールによって部屋に監禁されるも、青年になったベルトランは彼を溺愛する母親を利用して部屋を脱走し、パリに向かう。しかしその幼馴染の親友を殺してしまい、初めての殺人を犯してしまうこととなる。更にパリにて軍人として暮らし始めた彼は、そこでソフィーという最愛の恋人を見つけ、ともに暮らしながらも様々な猟奇殺人や死体盗掘事件を引き起こし、やがてエマールによって見つけ出された彼は、最後には軍法会議にかけられ、そして精神病院に収容されることとなる。


 作中ではベルトランが狼男の呪いを背負って生まれた理由としてはクリスマスの日に生まれたことが原因とされているが、その前日譚として彼の祖先であるジャン・ピタモンが対立していたピタヴァル家に忍び込み、城の者たちを皆殺しにしようとするも逆に囚われ、地下牢に監禁されながら生肉を食料として与え続けられたことが呪いの遠因となっていることが示唆されている。

 またソフィーと暮らしている間はしばらく猟奇事件を起こさなかったため、エマールはこれをソフィーによる愛が彼の変身を抑えているのだと考えていたがやがてそれはソフィーが自らの体を傷付け、ベルトランの血への渇望を満たしていたからだと判明する。しかしソフィーを愛していたのは本当のようで、精神病院に収容され、虐待と薬によって精神を破壊された彼は隣の独房に隣に入れられた女をソフィーだと思い込み、最後には彼女を連れて病院を脱出し、窓から飛び降りる。

 その後、ベルトランの消息については彼の墓の中に犬の死体が入っており、彼の死体は見つからなかったと語られるのみで、そこで物語は終わる。

 この小説は1960年イギリスの映画製作会社ハマー・フィルムプロダクションによって『吸血狼男』として映画化されたが、その舞台はフランスからスペインに、またベルトランに当たる狼男はレオンへと名前を変更され、設定も若干変えて制作された。


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