第六節:月下の戦い
第六節:月下の戦い
ベルトランは昼間は適当な場所に身を隠し、毎日夜になるとパリの街を彷徨っていた。獣人の姿となった彼の咆哮がパリの市街に谺する。
かつて愛したソフィーはまだ見つからない。だが彼女はこの町にいるはずなのだ。彼女はこの町が好きだった。だからきっとこのパリで自分を待っていてくれているはずなのだ。そう思うとじっとはしていられない。
人狼であるという正体を知りながら自分を愛してくれたのは彼女だけだった。ソフィーは何もかもを満たしてくれた。彼女がいなければ駄目だ。もう一人では生きられない。
ベルトランは夜気の匂いを嗅ぐ。嗅覚に異常はないが、それを判別するための頭脳は壊れている。それ故に若い女の匂いが彼にとっては全てソフィーの匂いだった。
ベルトランはその夜もその匂いを嗅ぎ取った。この向こう、通りの角を曲がったところにソフィーがいる。
ベルトランは大地に両手を付いた。その腕は変形して狼の前足となり、体も変化して獣人のものから巨大な狼そのものとの姿となる。
それは再び月に向かって咆哮を上げると、疾風のように走り出した。
「いたわ」
クリスチーナは飛んできた小型の梟を手に止まらせ、そう呟くように言った。この梟は吸血鬼の体の一部を変化させたものだ。クリスチーナの右腕に乗っていた梟はやがて紅色の魔力の塊となって彼女の体内に吸収される。
魔力の気配とともに獣の匂いが動くのを感じ取ったのだろう。レオンの表情が変わった。その隣に立つクリスチーナもまた気配の方に顔を向ける。
「あちらだな」
レオンはその言葉とともに駆け出した。クリスチーナも一瞬遅れて走り出す。
獣の匂いは急速に強まって行く。どうやらあちら側からも近付いて来ているらしい。来たる戦いに備え、レオンは上着を脱ぎ捨てた。走りながらその体が変化して行く。
体表は薄茶色の体毛に覆われ、裂けた口に牙が生える。瞳は野生の色を帯び、体中が厚い筋肉に覆われる。
「先行くわよ」
クリスチーナもまた吸血鬼としての力を発揮する。紅の瞳は闇を見通し、そして強靭な足が大地を蹴る。その力はかつて少女の頃、野山を駆け回った頃とは比べ物にならない。
吸血鬼と化した際、クリスチーナの感覚能力や身体能力は人間であった時よりも急激に強化された。そしてその中でも顕著だったのが脚力の増加だった。
少女であった頃、自然の世界を走り回った経験を象徴するように彼女の足は力を増した。そしてそれ故に、彼女は戦う際には足を使うようになった。剣も銃も槍も使い方を知らぬクリスチーナにとって、その脚力は吸血鬼としての最大の武器となった。
「おうらぁ!」
吸血鬼の体が紅い風となって宙に舞う。羽織った紅色のコートが風を受けて靡き、その右脚が空中で真っ直ぐに伸びる。そして跳躍の勢いを保ったままに彼女のブーツの底が灰色の人狼の横顔を打った。
その一撃によって、前方を歩く女を襲おうと背後から前足を伸ばしていたベルトランの体が吹き飛んだ。狼男の体は地面を転がりながら近くの民家の壁にぶつかり、轟音とともにその煉瓦にひびを入れた。
「クソみたいに頑丈なやつね。人狼ってみんなこうだってのかしら」
石畳の上に着地し、紅い吸血鬼はそう悪態を吐く。不意打ちで思い切り蹴り付けたにも関わらず相手の骨が折れた感覚はなかった。実際、ベルトランは呻き声をあげながら起き上ろうとしている。
「そこのあんたは逃げなさい。文字通り犬の餌になりたくなければね」
クリスチーナは何が起きたのか分からないという様子で吸血鬼と狼男を交互に見ている女に声をかけた。まだ二十歳になったかどうかというぐらいの若い女だ。彼女にこの人狼の餌食になる謂れはない。
ベルトランが起き上がるのを見て、女は短い悲鳴を上げて逃げ出した。クリスチーナは舌打ちして灰色の狼男を見る。月光の下、魔物は牙をむき出しにしてクリスチーナを睨んでいる。完全に敵として認識されたようだ。
パリの夜の静寂に獣の唸り声が解けて行く。その静けさを破るようにして、クリスチーナの声が響く。
「失礼な馬鹿犬ね。わたしだって若い女なのに。まあ見た目だけだけど」
クリスチーナは今にも飛び掛からんとするベルトランに対し、更に蹴りを打ち込むために構えた。一撃で倒せないのなら、倒れるまで蹴りを入れ続けるのみ。それに今の彼女には味方がいる。
ずっと孤独だったクリスチーナにとって、その事実は彼女が思う以上の暖かさを与えてくれていた。
「クリスチーナ、伏せろ!」
追撃を打つ前に背後からレオンの声が聞こえ、クリスチーナは反射的に腰をかがめた。直後その頭上を薄茶色の塊が飛び越え、灰色の人狼に向かってぶつかって行った。
まともにレオンの体当たりを食らい、再びベルトランの巨体が倒れる。レオンはさらにベルトランの喉笛を噛み砕こうと顎を開くが、狼の姿であるベルトランの四本の足がレオンの胴を蹴り上げたことで彼の体が引き剥がされる。
レオンが地面に落ちるより早くクリスチーナは動いていた。一歩でベルトランに近付き立ち上がろうとするベルトランの肩に向かって右の踵を振り下ろす。
今度は肩の骨を砕いた感触があった。ベルトランの体が再び地面に崩れ落ちる。さらに追い打ちを掛けようとクリスチーナは左足を振り上げるが、獣の姿から獣人の姿に変化したベルトランの右手が、振り上げた方のとは逆の右足を掴んだ。
「お前はソフィーじゃない」
濁りきった瞳を吸血鬼に向けたベルトランが憤怒を滲ませた声で言い、クリスチーナの体を片手で投げ捨てる。クリスチーナは体を反転させ、壁に着地するように両足の裏を乗せて衝撃を殺した。
「大丈夫か?」
「まだまだいけるわ」
地面に降りたクリスチーナにレオンが尋ね、クリスチーナが答えた。足ベルトランの爪が食い込んだ傷が痛むが、まだこれぐらいでは泣き言は言ってられない。それにレオンが横に立ち、ともに戦ってくれていることがどうしようもなく嬉しかった。戦いの中でそんな高揚を覚えたのは初めてだった。
自分はこんな気持ちを求めて彼に助力を申し出たのかもしれない。今更ながらそう思う。誰かと言葉を交わし、ともに何かをする。ただそれだけのことが今の彼女にとっては特別だった。そんなことは今まで望みはしなかったのに。いや、考えようとしなかっただけなのかもしれない。
ただクリスチーナはこの月下の戦いの中で、確かに救われていた。しかし今はそんな物思いに浸っている場合ではない。吸血鬼はレオンに気づかれないよう、小さく頭を横に振った。
ベルトランは既に立ち上がっていた。肩を砕いた左腕は既に音を立てながら再生を始めており、だらんと垂れた腕に次第に力が戻ろうとしている。一筋縄ではいかない相手のようだ。
今度はクリスチーナとレオンが同時に動いた。ベルトランは向かってくる二体の魔物に対処すべく構えるが、クリスチーナは急加速してその横を通り過ぎた。そちらに気を取られた一瞬の隙をつき、レオンがベルトランの喉に食らいついた。
鮮血が迸り、ベルトランからか細い声が漏れた。クリスチーナは止めを刺そうとベルトランに向かって回し蹴りを放つが、しかしそれは後ろに向かって伸びたベルトランの右腕に止められた。更に再生した左腕がレオンの後頭部を掴み、喉から引き離した。
ベルトランの咆哮が響き渡る。直後、彼に掴まれた吸血鬼と狼男が石畳に叩き付けられた。容赦など微塵も感じさせない恐ろしい力だった。クリスチーナは背骨が砕けるような感覚とともに、肺の中の息を全て吐き出した。
レオンが首を掴み、地面に向かって自分を押さえ付けるベルトランの腕に爪を突き立てているのが見えた。だがベルトランは苛立ちげな声を上げると、クリスチーナの足から右手を放し、レオンに向かって振り上げた。その長く鋭利に伸びた爪が、レオンの心臓を狙っている。
「レオン!」
クリスチーナは彼の名を叫んだ。考える前に体は動いていた。クリスチーナがレオンの上に覆い被さったのとベルトランの腕が振り下ろされたのはほぼ同時だった。狼男の爪はクリスチーナの背中に突き刺さり、そしてその脇腹まで貫いた。
咄嗟の行動だった。体内から血の塊が込み上げて来て、口の端から流れ出す。それでもなお爪を引き抜いたベルトランに蹴りを浴びせようとするが、体が動かなかった。
彼を守らねばならない。もう大事なものたちを失いたくない。その気持ちがクリスチーナの中で渦を巻く。わたしはレオンを助けるなんて息巻いたけれど、本当に助けて欲しかったのはわたしなんだ。クリスチーナは朦朧とする意識の中で、それに気が付いた。
誰かを頼りたい、誰かと一緒にいたい、誰かのために生きたい。かつて故郷の村で愛する人を傷付け、そして自ら故郷を捨て去ってからずっと目を背けていた彼女の中の欲望が、どうしようもなく溢れ出していた。
クリスチーナは胸を締め付ける苦しみに涙を流す。そしてその口からは、苦痛の喘ぎが零れる。
「貴様ぁ!」
レオンの怒声が響いた。彼が握った拳がベルトランの頬を打ち、弾き飛ばした。
ベルトランは更に立ち上がり、こちらに対して攻撃の姿勢を見せたが、ふと空を見上げて体勢を崩した。クリスチーナもまた感じていた。月の光が弱まっている。もうすぐ夜が明ける。そしてその事実がこの戦いにひとまずの終止符を打った。
ベルトランは瞳孔の開いた瞳でこちらを一瞥し、そして去って行った。あくまでも本能に忠実らしい。太陽の下では魔物は魔力を満足に発揮できないものが多い。時には日光そのものが致命傷となるものもいる。
レオンが自分の体を抱え上げる感触があった。昨夜と逆だな、とそんなことを思いながら、その腕の暖かさにクリスチーナの心は安堵に包まれる。そして、クリスチーナの意識は遠退いて行った。