第四節:パリの狼男
エマールは自分がなぐられているのも忘れて「ここも狼人間ばかりだわい」とにやにやして喜んでいた。
「世界中が奴らで一杯なんだ。それをなんでまた、めったにいないものなどと思いこんでいたのだろう。自分だって一時はそうだったんだが、ただそれに気づかないでいただけなんだ」
ガイ・エンドア『パリの狼男』より
第四節:パリの狼男
「ソフィー……」
顔中に無精髭を生やし、体に襤褸を纏ったその男は呟いた。目は虚ろで歩き方もふらついているが、二メートルを超えるその体は厚い筋肉に覆われており、瞳はぎらぎらとした野生の光を灯している。
「歌っておくれ、ソフィー……」
両手の指を動かすと、長く伸びた爪が互いにぶつかりあってカチカチと音を立てた。黄ばんだ歯の間からは熱を帯びた息が漏れ、その口元には乾いた血がこびり付いている。
男の目がひとつの対象を捉えた。彼の前を歩く一人の若い女。白いコートを身にまとったブロンドの若い女だ。薄い霧の向こうに女が歩いている。
「ああ、ソフィー……!」
男の薄汚れた顔に笑みが浮かんだ。そしてその肌が、体が、満月の下で次第に固い体毛に深々と覆われ始める。骨は変形し顎が前に突き出て、眼孔が広がる。歯は牙と化して鋭く長く伸びる。耳は尖り、爪は獣のそれと化す。筋肉は膨張し、体もさらに一回り大きくなる。
満月の下に現れたのは人狼の姿だった。人と狼の特徴を併せ持つ、半獣半人の魔物。狼男は満月に向かって咆哮を上げると、前を歩く女に向かって躍りかかった。
「ソフィー、ソフィー」
人狼はうわごとのように呟きながら、女の細い首にその手をかける。女の喉は悲鳴を上げる間もなく潰され、女は空気を求めて口を開き閉めする。
この女はソフィーなどという名前ではなかった。だが狂った人狼の目には、その女がかつて彼の愛した愛くるしい女の姿に写っていた。女の恐怖に見開かれた瞳も、自分に向けられる恍惚の瞳に見えている。
[さあソフィー帰ろう、僕たちの家に」
狼男は言い、そして彼女の肩にその牙を突き立てた。大きな傷ができないようにゆっくりと。かつて恋人が自分に血を与えてくれたことを思い出しながらその血を嘗め、しかし一嘗めした直後狼男の目は怒りに染まる。
「お前は、ソフィーじゃないな」
人狼の頭部からうめき声が漏れる。血の味が違う、精神は狂気に満ちていても舌はその味を覚えていた。
狼男はもう一度遠吠えを上げると、首を絞められて真っ青になっている女の頭部を噛み砕いた。血飛沫が飛び散り、力の抜けた女の腕が下に向かって垂れる。
人狼は頭を失った女の体をその場に捨てると、口元に垂れた鮮血を舌で嘗め取った。その間にも男の体からは体毛が抜け落ち、筋肉が縮小し、爪と歯が縮んで行く。
「ソフィー……、どこに行ってしまったんだい?」
血肉への渇望を癒し、やがて人の姿へと戻った男は、うわ言を呟きながらパリの街を徘徊し始める。
クリスチーナがその場所に現れたとき、残されたのは首から上を乱暴に食い千切られた死体だけだった。濃い血の匂いとともに、獣の匂いが辺りに漂っている。
パリには狼男が潜んでいる、という噂が近頃まことしやかに囁かれているが、それも案外間違いではないのかもしれない。そもそも吸血鬼がこうして夜の下を闊歩しているのだ。他の魔物が一人や二人いたっておかしくはない。
ここは花の都。人も魔物もきっと惹き付けられる。クリスチーナもまたそうだった。自分の故郷を離れ、ひたすら旅を続けて辿りついたのがこの場所だった。
ここは人が多いから誰も自分に関心を持たない。その居心地が良かった。ここでは吸血鬼も、大衆の中に紛れて暮らすことができる。目立つことさえしなければ、自分の命を狙われることもない。
だがそれを脅かしているのがこの昨今の人狼事件だ。本当に人狼の仕業なのかは知らないが、体を食い千切られて殺されるなんて普通の人間の所業ではないのは確かだ。それに先ほど彼女は確かに月に吠える獣の咆哮を聞いた。
この世に自分のような魔物を狩ることを生業とした存在がいることは知っている。これまでにも幾度かそんなものたちと戦って来た。だから簡単に殺されるつもりはないが、わざわざそういったものたちに狙われるつもりもない。
クリスチーナのルビーのピアスが揺れた。背後に気配を感じ、吸血鬼は振り返る。
通りの向こうに彼女を見つめる男の影が見える。だがただの人間ではない。その体は薄茶色の体毛に覆われ、前に突き出した顎からは鋭い牙が露出している。
人狼、その名前がクリスチーナの脳裏を過った。やはりこの町に人狼はいた。クリスチーナは側に倒れた亡骸にちらと目をやった。食べ残しを回収しに来たということだろうか。
その人狼はクリスチーナの姿を認めると一直線に突進して来た。獲物を撮られたと怒っているのか、それとも新たな獲物を見つけて喜んでいるのか。
クリスチーナは腰を落として身構える。人狼の動きは予想以上に早く、ものの数秒で吸血鬼の目の前にその巨体を曝け出した。だがクリスチーナは怯むことなく左足で石畳を踏みしめ、そして地面を蹴った勢いで右足を人狼の顔の側面に叩き付ける。
「ねんねしてなよ、わんこちゃん」
鈍い音がパリの薄霧に響き、人狼の体が地面に沈んだ。石畳を砕くほどの勢いで倒れ込んだにも関わらず狼男の命はまだ健在であるようだった。意識はないようだがまだ胸が上下している。クリスチーナは止めを刺さんとその人狼に近付くが、彼女の見ている前でその姿は人の姿に戻って行き、やがてそこには半裸の男の姿が残った。
魔物であるから実際の年齢は分からないが、見た目は二十になるかならないか程度の若い男だった。そしてその体は何かに怯えるように震えている。
それを見ていると、どうもその命を奪う気持ちは削がれてしまった。首に踵を落として折ってやろうかなどと思っていたのだが、その代わりに結局クリスチーナは男の体を抱え上げ、自分のねぐらへと帰ることとした。
クリスチーナの借りている古い貸家のベッドの上で男は目を覚ました。最初は何故自分がここにいるのか分からないという様子で辺りを見回していたが、やがてクリスチーナの姿を認めて怪訝な表情を彼女に向けた。
「おはよう狼男さん」
クリスチーナは眠たげな目を彼に向けてそう言った。朝は吸血鬼にとっては睡眠の時間だ。日の昇っている間に動くと体が重い。だが人狼を放置して眠る気にもならなかった。とりあえず助けはしたが、彼は自分を見て襲い掛かって来た怪物なのだ。
「君は……? 僕を助けてくれたのか」
「わたしはクリスチーナ。昨日あんたがいきなり襲って来たから返り討ちにしたは良いけど、放置しとくのも忍びなくってね。あんたがこの町で暴れてる狼男?」
男は首を横に振った。少しばかり毛深く、厳つい顔をしてはいるが、その窪んだ眼の奥の瞳は思慮深く優しげだった。男は頭を押さえ、そして眠っていたベッドの上から足を下ろす。
「違う、僕はあいつを止めに来たんだ。だけど昨日の記憶が曖昧だってことは、僕はまたあの忌々しい姿に変わってしまったのか」
男は苦悩するように眉根を寄せ、そして溜め息を吐いた。あの姿とは人狼の姿のことだろう。あれに変身したのは彼の意志ではないということか。
男は改めてクリスチーナを見た。特に攻撃しようという意志は見受けられないが、油断はしない。相手は自分と同じ魔物なのだ。人間相手のようには行かないだろう。
だが男は柔和な疲れた笑みを浮かべ、彼女に言う。
「すまない、礼がまだだったね。僕はレオン。僕を止めてくれてありがとう」
「レオン? あんたレオンっていうの」
クリスチーナは少し驚きながらそう尋ねた。レオンと名乗った男は困惑気味に吸血鬼を見る。その様子を見てクリスチーナは弁解するように言う。
「あ、ごめんね。昔の友達と同じ名前だったからちょっとびっくりして」
「そうか。でも、君はどうして僕を止められたんだい? あの姿になった僕は自分でも止められないのに」
レオンが首を傾げた。その行動でかつて梟の友達を思い出し、クリスチーナは穏やかな気持ちになる。
「簡単な話よ。わたしもあんたと同じ化け物なの。あんたが人狼ならわたしは吸血鬼。だからあんたを止められた。これ以上ないぐらい分かりやすいでしょ」
クリスチーナは微笑した。レオンはだが考え込むように腕を組むと、同情するようにクリスチーナに言う。
「吸血鬼……、そうか、君もそうなのか。だが君は、自分を失うことはないのか」
「昔はあったけど、今はもう大丈夫。いきなりあんたに飛び掛かって血を吸うなんてことはしないから安心して」
クリスチーナがそう笑うと、レオンもまたぎこちないが笑みを見せた。その顔に微かに窓から洩れた日光が当たる。
「僕もそうだ。満月の夜でない限り、血の飢えに負けることはないと思う。昨日外に出たのは間違いだった。だけど君が止めてくれたお陰で昨夜は誰も殺さずに済んだ。それに君を傷付けなくてよかった」
「訳ありなのね」
クリスチーナは椅子の上で足を組んだ。人狼族と話すのは初めてだが、彼もまた自分と同じような苦悩を背負っているのだろう。かつて自分の衝動を抑えられず、アンジェロを傷付けてしまったクリスチーナのように。
「子供の頃からこうだった。時折、動物の暖かな血肉を啜りたいという衝動に勝てなくなるんだ。今は変身は抑えられるようになったが、満月の夜だけは別だ。あの月の光を浴びると自分ではどうしようもなくなってしまう」
「分かるわ」
吸血鬼が人の血を啜ることに対して強い衝動を持つように、人狼もまた人の血肉を食らうことに強大な欲求を持ってしまうのだろう。それは魔物である以上どうしようもない呪いのようなものだ。
「でもそれが分かってるならなんで昨日外なんかにいたの? あんたが人間を襲ってるんじゃないんなら、近頃この町を騒がせている化け物が関係あるの? 良かったら聞かせてよ」
クリスチーナの言葉にレオンは少し迷うような素振りを見せた後、一度頷いた。
「その通りだ。僕はあの男を殺すためにパリに来たんだから。あいつの気配を感じて、僕は思わず外に飛び出してしまった。あいつがまた人を殺すと思うとどうしても許せなかった」
レオンは拳を握りしめ、クリスチーナを見据える。
「やつは名前をベルトランといってね、僕と同じ人狼の呪いを授けられてしまった男なんだ」
そして、人狼の男はもう一人の狼男の物語を話し始めた。