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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第二章 血は命の水だから
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第三節:紅の吸血鬼

 また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。

 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

 それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。

 イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。

 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。

「あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない」


『旧約聖書』 「レビ記」 より



第三節:くれないの吸血鬼


 わたしが世話をするうちに、梟はどんどん元気になって行った。わたしにも懐くようになり、頭を撫でると目を細め、体を摺り寄せて来た。それが可愛くて、わたしは両親の目を盗んではその梟の元に通った。

 村の子供たちとは遊べなかったから、わたしにとって彼はとても大事な友達だった。わたしは彼にレオンと名前を付け、大切に世話をした。

 ひと月もするとレオンはすっかり元気になり、翼を羽ばたかせて飛び回るようになった。それでもうお別れかと思っていたけれど、彼は自由に飛ぶことができるようになった後もわたしが名前を呼べば森のどこからか現れてくれるようになった。

 わたしが彼と遊ぶときはいつも夜だった。梟は夜に生きる鳥だし、わたしも両親の目を盗むにはその時間帯が都合がよかった。それに村の人たちはみんな眠っているから、彼らと自分が違うことを気にしなくて良い。月夜の下で走り回るのはとても心地が良かったことを思い出す。

 彼はわたしの腕に、肩にとまり、そして私の隣を飛び、一緒に遊んだ。森を駆け、一緒にご飯を食べて、そして夜が明ける前にわたしはレオンと別れた。

 それは本当に楽しかった。村で抱いていた疎外感もレオンといる時には忘れられた。

 だけどそんな日々を過ごしていた頃だ。わたしの両親が死んだのは。

 その日もわたしはいつもと同じように両親が寝静まっているのを確認して家を出た。夜の森は静かなようで、耳をすませば色々な動物たちの声が聞こえるから案外騒がしい。でもその自然の声がわたしは好きだった。

「レオン!」

 わたしが一声呼ぶと、それに答える鳴き声があって白いメンフクロウが飛んで来る。彼がわたしの肩にとまったのを確認してレオンの頭を撫で、そしてわたしは彼とともに走り始める。

 走ることは好きだった。水溜まりを飛び越え、岩から岩へと飛び移り、木々の間を駆け抜ける。そうしてる間は嫌なことを忘れられた。野生動物たちに襲われる恐怖は毎晩走っているうちに消えてしまった。動物たちはわたしの味方なんだと、いつの間にかそう思っていた。

 言葉は通じなくとも彼らはわたしの友達だった。わたしは人の世界にいるより森にいる方が居心地が良かったのかもしれない。

 だけど、レオンと一緒に高い杉の木に登って村を眺めていたら、とても明るい光がわたしの家の方から見えた。あんな光は普段村では見ない。わたしは不安になって目を凝らした。

 レオンが一声怯えたように鳴き、そして私は手で口を押えた。わたしの家が燃えている。火が付いてる。

 わたしは木から飛び降りるようにして大地に降り、家へと走り出した。




 父と母は助からなかった。どうやら火事になる前に既に頭を殴られて殺されていたらしい。火事は偶然ではなく、何者かによる放火が原因だったという。大した額などなかった財産は全て持ち去られ、わたしは一夜にして何もかもを失った。

 残ったのは家の残骸と、両親が流したのであろう血の跡だけだった。母にかつて血は命そのものなのだと教えられたのを思い出した。神は肉体の命は血に宿るのだと仰ったという。

 そうならば、両親の命はこうしてここに零れてしまっている。父と母の命はもう永遠に肉体には戻らない。もうわたしに神様のことを教えてくれることもない。

 神様はわたしの両親を守ってはくれなかった。神様の教えを守ることの意味は、この世で幸福を得るためのことでも、神様に力を与えられ自らを守ることでもない。それは分かっていたけれど、しかし神様の教えを守り、敬虔に生きてきた彼らがどこの誰ともわからない暴漢に簡単に殺されてしまったことが、どうしようもなく悔しかった。

 わたしはただ立ち尽くしていた。そうして、たったひとりこの世に残された。




 最初はなぜ夜中に家にいなかったのかとわたしも疑われた。だがわたしがやったという証拠もなく、わたしが両親を手に掛ける理由もないということから罰せられることはなかった。

 だがわたしは後悔した。あの夜、わたしは両親を騙すようにして家を離れていた。その間に父と母は殺された。もしかしたら、わたしが家にいたら彼らは殺されなくても済んだかもしれない。家を襲ったのが誰かかは分からないし、わたしじゃ戦えなかったかもしれないけれど、それでも足には自信がある。村の誰かに助けを求めるぐらいはできたかもしれないのだ。

 天涯孤独になったわたしは、村の外れに一軒の空き家を与えられ、そこで暮らすようになった。両親がそうであったようにわたしも生きるために何でもした。一切れのパン、一皿の豆、一晩の宿のためならばどんな仕事でもしたし、どんな遠方にも使いに行った。

 たまには無茶な依頼をされて悪態を吐くこともあったが、死んだ両親は人に尽くすこと、それが即ち自分の幸福に繋がるのだと言っていた。わたしはそれを信じてひたすら努力した。

 それにアンジェロやその父親から依頼を受けることは嬉しかった。アンジェロには婚約者がいたけれど、それでも彼の役に立てるならばそれで幸せな気持ちにもなれた。

 レオンは、あの後しばらくして死んでしまった。いつものように彼が飛んで来ないから、心配になって彼がいつもねぐらにしている木のうろを覗いたら、苦しそうに息をしている彼が見えた。

 レオンはわたしを見て、安心したように一声鳴いて、そしてその夜が明ける前にわたしの腕の中で息絶えた。寿命だったのだろう。だけどわたしは最後の家族を失ってしまったように思って、ひたすら泣いた。

 わたしは孤独だった。レオンがいなくなってしまってから、わたしの心はより空虚となった。顔では笑っても心はいつも満たされなかった。

 そんな人生の末にでわたしはあの二人の男に殺された。わたしは幸せなんて知らないまま、ただ未練だけを残して死んだ。だからわたしはこの吸血鬼となってしまったのだろう。

 わたしが眠るこの土の上には、何人かの人たちが訪れた。わたしはおぼろげな体で土を抜け出して、彼らを眺めていた。まるで幽霊のように定まった形を持たず、物理的な干渉を受けないこの体には自分でも無意識に変化できるようになっていた。

 まだ土を掘って外に出るほどの力はなかったから、わたしはその体となって訪れた人々を見つめた。時に彼らがわたしの眠る塚に近付いたときには、そっとその体に抱き付いてみたりもした。寂しかったせいもある。それに、わたしは血を必要としていた。

 わたしは彼らからほんの少しだけ、彼らを傷付けないで済むだけの血液を貰った。それは僅かずつではあるかわたしに力を与えてくれた。




 そして、わたしは今宵再び蘇った。土から這い出て聞いたのは故郷の海の音だった。

 わたしは土を払って海を眺めた。月夜に照らされた海はとても綺麗だった。真夜中のこの場所に人は滅多に来ない。たまに後ろに聳えた塔に人が訪れるぐらいだ。

 だからわたしは、心行くまで砂浜に座り込み、海を眺めた。わたしはもうこの村を離れ、二度と戻ってはこないつもりだった。死んだはずのわたしがまた現れたらきっと村の人たちを怖がらせてしまうし、わたし自身も魔物となったこの身で今までと同じように生きて行こうとは思わない。

 旧約聖書の中で、神はモーセに血を食べてはいけないと教えた。それを口にするものは神によって断たれるのだと告げた。

 にも拘わらずわたしは血を欲する吸血鬼という魔物となった。ならばわたしは神へ反逆する化け物なのだろう。だがそれで構わない。神はわたしに何もしてくれなかった。神様なんて糞食らえと、今はそう思える。

 わたしは人としては幸福は掴めなかった。だから魔物として生きるならば、魔物としての幸福を手に入れよう。

 夜が明ける前にわたしは立ち上がった。振り返ると、森のどこかで梟が鳴いている。わたしへのはなむけを歌うように。そういえばずっと昔、村の誰かにこの国には梟の姿になる吸血鬼がいるのだと聞いた。わたしは彼らの仲間になったのかもしれない。わたしはレオンのことを思い出して、本当に久しぶりに笑った。

 立ち上がり、体に付着した砂を払う。夜明けが来る前にここを出よう。そう考え、わたしはただ歩き始めた。それに目的地はない。ただ故郷を離れることだけが目的だった。




 それから時は経ち、舞台は一九世紀半ばのパリに移る。

 その女は一人パリの町を歩いていた。時刻はもう二時を過ぎ、人通りもまばらになった刻限。ガス灯の明かりの下で女のくれないの瞳が目立つ。

 女は濃い灰色のシャツの上に赤のコートを羽織り、足には黒い革のズボンと真紅のブーツを履いている。

 顔貌かおかたちは美しく、肩まで伸びた髪がさらりと揺れる。耳にはルビーのピアスが下げられており、ガス灯の明かりを灯して赤く光る。

 顔は死人のごとく青白く、それが彼女の真紅の唇をより強調させていた。

 そんな女が真夜中の街に歩いていれば人目を引く。彼女に迫る三人の影がある。

 女は立ち止まり、そして背後に現れた三人の男を振り返った。

「よう姉ちゃん、こんな時間にこんなと歩いてるなんて不用心だぜ?」

 へらへらと笑みを顔に張り付けた若い男がそう尋ねた。その眼の奥には隠そうともしない劣情が見える。女は澄ました顔でそれに答える。

「構わないで。わたし夜の散歩が好きなの」

「つれないこと言うなよ」

 二人の男が女の前に回り込む。女は顔をしかめ、その光景を見つめる。ナポレオン三世によって行われたパリの大改造によって町の街燈は増え、かつてのスラムと化したパリとは比べられないほど夜は明るくなった。だがそれだからと言って、かつての闇のこの町が完全に忘れ去った訳ではない。

 真夜中になれば、時代に取り残されたこのような人間たちがのこのこと顔を出す。

「いいじゃん、俺たちと遊ぼうぜ? そういうこと期待してこんな時間に歩いてたんだろ?」

 下卑た笑い声が女の周りに響いた。男の一人が彼女の肩に手を掛けようとする。だが女は鋭くその手を払いのける。

「もういいじゃん、やっちまおうぜ」

 男の一人が言った。その言葉を合図にしたように男たちが女を取り囲む。目の前に立った男がナイフを取り出し、それで女を脅そうと口を開きかけたその時だった。

 女の表情がにわかに変化し、肉食獣を思わせる凶悪なものとなった。

「あんたらみたいな町のゴミどもが、このわたしをどうしようって?」

 女が前方に真っ直ぐ突き出した足が男の腹部を抉り、その体が小石のように後方に弾き飛ばされた。慌てて背後の男が彼女を捕まえようとするが、背後に向かって放たれた回し蹴りによって、今度は女の踵がその男の顔を蹴り飛ばす。男はその勢いのまま地面に叩き付けられ、気を失った。

 女は彼女から後ずさろうとする最後に残った一人の胸倉を掴み、片手で持ち上げる。男のつま先が地面を離れ、その顔は恐怖に染まる。

「あんたたちみたいな馬鹿どもにはこの月夜の下は勿体ないわ。その辺のごみ溜めで震えているのがお似合いってもんよ」

 そう吐き捨てる女の口には長く伸びた犬歯が覗く。女は男の体をごみ溜めに向かって思い切り投げ捨てた。

 男は目を白黒させた後ぎこちない動きでごみ塗れの姿のまま立ち上がり、そして悲鳴を上げて走り去った。女、クリスチーナは溜め息を吐き、石畳の上に転がった二人の男を見下ろす。

 骨は何本か折れているかもしれないが、死ぬことはないだろう。吸血鬼は男たちから視線を逸らし、顔を上げる。

 その直後、パリの夜空に獣の咆哮が響き渡った。クリスチーナは顔をしかめる。それは狼の遠吠え。だがこの町にいるのは狼ではない。それよりももっと恐ろしいもの。

 くれないの吸血鬼は煌々と照る満月を見上げた。



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