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月影の下に魔は出ずる  作者: 朝里 樹
第二章 血は命の水だから
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第二節:真紅の法悦

第二節:真紅の法悦


 最初にわたしが彼の血でこの喉を潤したのは、村の近くの、峡谷へ折れて行く小道の畔だった。

 その道沿いに生えた栗の木の下、でわたしは彼を待っていた。彼は、アンジェロは昔からこの道をよく通ったから。まだわたしたちが子供だった頃から知っている。ずっと昔、まだわたしが彼やほかの子供たちと遊ぶとき、待ち合わせ場所にしたのがここだった。まだわたしは彼とは全く釣り合わない身分にいるのだと知らなかった、ただ楽しかったあの頃のこと。

 小さな頃からわたしは彼のことが好きだった。アンジェロがお金持ちだなんて知るずっと前から。だけどわたしは余所者の子で、彼は村一番のお金持ちの子、わたしが彼に相応しい女ではないということが成長とともに分かって来て、それとともに彼に迷惑をかけたくなくて、言い寄ることはできなかった。

 だけど今は違う。わたしはもう人ではない。ならば何を躊躇する必要があるのだろう。だからわたしは彼のことをただ一人待ち続けた。そして彼への想いが、どうしてかわたしの吸血衝動をさらに加速させた。

 彼を自分のものにしたいという欲望が、彼の血を吸うという行為に繋がってしまったのかもしれない。彼の体を流れる命の水を自分のものとする。それは彼に対する裏切りであることを知りながら、何とも魅力的なことのように思えてならなかったのだ。

 その頃のアンジェロは全てを失っていた。父は死に、財産は奪われ、そのために婚約者には逃げられた。人々の嘲笑の的となり、人気者だった彼はその頃にはただ一人仕事をしてその日その日を何とか凌いでいた。

 そんな彼の前にわたしは立った。陽が沈み、村に黄昏が訪れるとき、彼は決まってその道を通り過ぎた。わたしはそんな彼に向って微笑みかけ、遠い昔遊びに誘ったときと同じようにアンジェロを差し招いた。陽光が月光に変わり行く夕闇の下、彼はわたしをじっと見つめていた。

 少しの間があって、アンジェロはわたしの名を呼んでくれた。死んで人ですらない怪物になったのに、わたしのことを分かってくれた。ただそれだけのことが冷たくなったわたしの体に熱を宿らせる。そしてそれがわたしの本能をさらに刺激した。わたしはそれに逆らえず、ただひたすらに彼を欲した。

 わたしは愛情と血の渇望のために彼を求めた。わたしは己が唇で彼の唇を焦がし、また凍らせた。そしてわたしの鋭利に伸びた犬歯は彼の白い肌に突き立てられ、わたしの喉に彼の命の証を滑り込ませた。

 アンジェロに与えられる真紅に染められた法悦を私は享受し、そしてわたしもまた吸血鬼としての快楽を彼に与え続けた。

 それは今までにないとても幸福な日々であるとともに、わたしの中の彼への罪悪感を蓄積させる日々でもあった。わたしがアンジェロを待っていると、毎夜月が昇る度に彼はそこを訪れた。わたしは彼に会いたいという気持ちと、もう二度とここを通らないで欲しいという二つの矛盾した気持ちに揺れながら、それでも彼を前にしてはその欲望を制することができなかった。

 わたしは彼を精一杯に愛し、そして彼もまたわたしを愛してくれた。本当は一日中彼とともにいたかった。だけどわたしの人ならざるものとなった体は、朝の白い陽光からわたしを遠ざけ、わたしはアンジェロと離れ闇の中に身を隠すことしかできなかった。あのわたしが死んだ土の中にわたしは身を隠し、そしてその度に彼を傷付けてしまったことに対する自責の念に駆られ、もう二度と彼の前には現れるまいと思うのだ。

 それに、わたしのせいで彼が少しずつ弱り始めていることも分かっていた。血を吸われ、夜な夜なわたしのために家にも帰らずにいたのだからそれは当たり前のことだった。それを知っていたのに、わたしは彼を解放することができなかった。黄昏になるとまるで夢遊病に犯されたように、わたしはあの栗の木の下で彼を待っているのだ。月光に照らされながら、彼がいつものように現れてくれると信じて。

 わたしの執心が彼を縛り付けていた。この逢瀬はわたしと彼を繋ぐ唯一のものだった。わたしの弱い心は、ただ彼が欲しいという気持ちを抑えることができなかった。自分の欲望が彼を破滅へと向かわせていることを知っていたのに、アンジェロの血を飲めば飲むほどにわたしの飢えと渇きは日増しに酷くなって行くのを実感していたのに。




 だけれどそんな夜が続いていたある日、わたしの眠る塚に二人の人影が現れた。一人は村の司祭で、もう一人はわたしの塚の近くに建てられた塔の番人をしていたアントーニオだった。

 アントーニオは片手にそれぞれツルハシと角燈を持ち、そして土に穴を掘り続けて眠るわたしの傍に降り立った。穴の向こうから陽の光が降り注ぎ、わたしはほとんど身動きできぬままにその姿を見ているしかなかった。

 アントーニオは焦燥しきったような顔をしていた。表情は引きつり、汗が吹き出し、唇は震えていた。そして彼は角燈を穴の底、わたしのすぐ横に置き、そしてベルトに挟めていた木の杭をその右手に握った。

 彼は一瞬躊躇した後、わたしの胸に向かってその杭を突き立てた。陽光を背に黒く彩られたその姿は、わたしにとっては何よりも恐ろしい影であるとともに、アンジェロをわたしの呪いから解放してくれる救世主の姿でもあった。

 胸に激痛が走り、傷口から血が迸った。アンジェロがくれた真紅の水が流れ落ちて行く。痛みと悲しみにより、わたしの喉から絶叫が吐き出される。そしてやがてその声も枯れ、わたしは再び身動きのできない亡骸のようになって、穴の中に横たわっていた。

 わたしの上にあの日、人として死んだ日と同じように土が被せられて行く。わたしの体がまた闇に沈んで行く。だけれどわたしは安心していた。これでもうわたしはアンジェロを傷付けないで済むのだと。できればわたしが再び目覚めぬうちに、彼にはわたしの手の届かないところに行って欲しいと、そうでなければわたしの体が朽ち、消え果れば良いと、そう思った。

 その時にやっと、法悦を望むわたしの吸血鬼としての本能を、彼に対するわたしの人としての想いが打ち勝ったのかもしれない。




 それからわたしはただ土の中で眠り続けた。杭を打たれただけではわたしの体は二度目の死には至らず、だが動くこともできなかったわたしはただ夢を見た。これまで生き来た道を進み直すように、人の子であった頃の夢を。

 わたしはこの村に外からやって来た両親の間に生まれた。両親はともに熱心なカトリック教徒で、わたしも物心ついたときから神の教えの下で育った。

 両親は、常にわたしに他者に親切にするように教えていた。そうすれば死後に楽園に行けるのだと言い、彼らもまた村の人たちのために何でもやった。今思えば、それは余所者であるわたしたち家族がこの村で生きていくための術だったのかもしれない。村の人たちはそんな両親に何でも頼み事をして、両親はその対価としてわずかな賃金を貰って生活していた。

 わたしは両親がこの村に来てから生まれた子供だったが、村の人たちにとってはわたしも同じように余所者だった。小さい頃は何も考えないで同じ年頃の子たちと遊んでいたけれど、十を超す頃には自分の立場が分かっていて、ほとんど他の子供たちと遊ぶこともなくなっていた。母の家系がジプシーの血を引いていたため、わたしの容姿が他の人たちと少し違っていたことが、彼らと離れる要因のひとつにもなった。

 その代わりにわたしはひとり野や海を駆けて遊んだ。村は自然に囲まれていて、ひとりでも遊べる場所がたくさんあった。

 山では動物たちがわたしを歓迎してくれた。岩肌の露出した地面も、柔らかな土の上もわたしが走る上では何の問題にもならなかった。鹿や猪がわたしの横を走り、小鳥たちがさえずる。海で泳げば魚たちがわたしを先導し、潮風がわたしを癒してくれた。

 だから寂しくなどなかった。こうして生きて行く運命なのだと諦めていた。でも両親の教えを守っていたから、きっと死んだ後に大きな幸せを手に入れることができるのだと、そう自分に言い聞かせていた。

 そんな頃、わたしは村の裏側にあった森で一羽の傷ついた梟を見つけた。羽から血が流れていて、自力では飛べないようだった。縋るような目でわたしを見るその梟が可哀想で、そしてわたしを必要としてくれていることが嬉しくて、わたしはその梟を家へと連れて帰った。

 だけどそのわたしに浴びせられたのは、今までにない両親からの罵声だった。

「なんで梟なんて拾ってきた!」

 父は梟を抱えたわたしにそんな怒声を上げた。わたしがびくりと体を震わせると、不安そうに梟がわたしを見上げた。わたしはその頭を撫で、改めて父と向き直る。

 その顔は酒を飲んでいるわけでもないのに赤く染まり、そして荒い息が口から洩れていた。父の後ろに座っていた母は、なぜだか悲しそうな目でわたしを見つめていた。両親にはいつも他者には優しくしろと教えられていたから、どうして怒られるのか全然わからなかった。

「だって、この子がけがしていたから……」

 父は一度息を吸うと、首を横に振ってわたしの両肩に手を置いた。そしてわたしの目を睨むようにして見つめ、言う。

「良いかい? 梟は悪魔の遣いと呼ばれる穢れた鳥なんだ。こんなものを拾ってきてはいけない。すぐに捨ててきなさい」

 父は有無を言わさぬ調子でそう告げた。わたしは涙が出そうになるのを堪えて、何も言わずに家を出た。

 その時からかもしれない。わたしが両親の教えに疑問を持ち始めたのは。こんなか弱い、放っておいたら確実に死んでしまう小さな鳥を見殺しにして、楽園などに行けるものだろうか。自分が救われるためなら、この子はどんな目に合っても良いということだろうか。

 梟はわたしの顔を見て、小さく鳴いた。それがわたしを頼ってくれているようで、堪らなくなって、わたしはその子を家から少し離れたところにある木のうろの中に置いて、両親に見つからないように布や食べ物を調達して来て、そこでひっそりと飼い始めた。傷が治るまでわたしがこの子を守るのだと、両親の言葉など守ってやるものかと、そう誓って。



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