1-0. 噎せ返る最下層
その場所は夏でもないのに、噎せ返るほどの暑さだった。
大きな木の歯車を、たくさんの人間が回している。それを指示しているのもまた、人間であった。
「おらあ! きりきり働け! お前たちが働かないと、今日の飯は抜きにするからなぁ!」
男の声は鋭い。そしてその声が、歯車を回している人々に突き刺さる。
彼らはここに居る最下層民――正式名称はそうであるが、実際には『奴隷』などと呼ばれている――の監視役としてここに居る。いつも噎せ返るようなこの場所に居るわけではなく、殆どが代行者による監視に任せている。
代行者――それは魔法によって実現される技術の一つだ。どこか遠い国ではゴーレムなどと呼ばれることもあるが、少なくともここでは『代行者』などと仰々しい名前で呼ばれている。
最下層。
ここは文字通りの、どん底だった。
しかしながら、そんな最下層民にも唯一の休憩が与えられる時間がある。交代で行われる一時間の休憩だ。しかし、これは一日一回しか与えられず、この休憩でそう簡単に休まるわけでもない。
しかし、ここでは腐る程の人間が居る。代わりもいるし、それを捨てられるだけの余裕もある――ということだ。
ここでは、人間は人間として扱われることのない。
そんな、場所であった。
その少女――イヴァンに休憩時間が与えられたのは、ちょうど朝のことだった。とはいえ、彼女は生まれながらにしてこの最下層に居るので、彼女はいわゆる『常識』というものを知りえない。
少女や女性の最下層民が行うことは、男のように体力仕事ではない。
次の層にいる人間の、慰み者になることであった。もちろん、拒否することなど出来ない。拒否した時点で男ども同様、文字通り捨てられるだけなのだから。
彼女、イヴァンもその慰み者のひとりだった。彼女には休みが殆ど与えられない。朝から晩までひっきりなしに、別の人間とともに寝るのだ。
そんな、疲れ果てた彼女の隣りにひとりの少年が座った。
帽子を被った少年だ。髪は黒く、しかし服はボロボロであった。
「……イヴァン」
少年は、彼女の名前を呼ぶ。少年は青い眼差しをイヴァンに向けた。
イヴァンは、小さく頷いた。
「今日……俺たちは行動を起こす。お前もそれに乗じて逃げろ。扉の鍵は既に入手してコピーも手に入れている。問題はない」
「……出ることが、できるの?」
イヴァンは訊ねる。少年は頷く。
「ああ。きっとできる。絶対にできる。……君をこんな場所で、一生を終わらせてはいけないんだ」
少年の話は続く。
「どんな時だって、希望を忘れてはいけない。どんな時だって、絶望に囚われてはいけない。それさえ守れば、必ず道は開けるはずだから」
少年の言葉は、イヴァンには少し難しい話だったけれど、それでも彼女は頷いた。
それを見て、少年は微笑む。
「それじゃ、またね」
そう言って少年は手を振った。
◇◇◇
目の前に広がっているのは鬱蒼と生い茂った緑であった。
しかし彼女はその光景について喜ぶこともなく、ただ走るだけだった。
第四層、第七十八区画『草原エリア』を走る彼女を追いかけるのは数人の兵士だった。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。
逃げなくてはいけない。逃げなくてはいけない。
捕まってしまった、その先に彼女が生きる希望などない。
走れ、走れ、走れ。
川を越えたその先に広がっているのは――海だった。瀑布だった。
あまりにも高い位置にあるのか、下が雲海になっている。
ここから飛び込めば――死ぬ。しかし、水が流れている。これに沿っていけば、或いは――。
「おい、あそこにいたぞ!」
見つかってしまった。
「――もう、選択の余地はない……」
彼女は呟いた。
そして。
彼女は、その瀑布へと飛び込んでいった。