乱れ
「井川さん?」
公生は、そっと声をかけてみた。
目の前には、井川が倒れている。先ほど、いきなり現れ恐ろしい表情で何やら怒鳴った。そして突進してきたと思ったら、派手に転倒し仰向けに倒れている。
しかも、倒れてから全く動かないのだ。何かあったのだろうか。
「大丈夫ですか?」
もう一度、声をかけてみた。しかし返事はない。井川は目を見開いたまま、ピクリとも動かないのだ。
どうなってるんだ……と思った時、別の者が答えをくれた。
「井川さんは、もう死んでいる。やはり、島の動きが乱れているな」
言ったのはペドロだ。いつの間にか、音もなく近づき公生の後ろに立っている。まさに暗殺者そのものの動きだ。
しかし、今はそれどころではない。井川が死んだというのか……。
「えっ、死んだんですか!?」
それきり言葉が出てこなかった。
この男の印象は、決して良いものではない。「シャバでは百人の子分を使っていた」などと吹聴していたが、実体は情けないものだった。
それでも、目の前で死なれるのは嫌だ。その上、こんな事故のような形で、一瞬にして命を奪われてしまった……さすがに、同情せざるをえなかった。
世の中は、無常かつ無情なのだな……などと思いつつ死体を見下ろしていると、不意にペドロが声をかける。
「君は、彼がここに何をしに来たのか、気づいていないようだね」
そんなこと考えもしなかった。公生は、戸惑いつつ聞き返す。
「えっ? そ、そうですね。あの人は、何しに来たんですか?」
その問いに対し、ペドロはなぜか苦笑した。
「そうか。まあ、彼が死んだ今となっては、何の意味もないよ。それよりも、ちょっと来てくれないか?」
「あ、はい」
ペドロは、森の中を進んでいく。普段に比べ、慎重に歩いているように見えた。
やはり、この島で何か起きているのか。ひょっとして、その処刑人が無差別殺人鬼と化してしまったら……などと思いつつ、公生も後に続く。
だが、突然ペドロが立ち止まった。続く公生も、足を止める。
「公生くん、ここで待っているんだ。いいね」
◆◆◆
同じ頃、永井もまた森の中を歩いていた。その手には、木の枝を握っている。武器としては心もとないが、ないよりはマシだろう。
「井川さん、どこですか?」
森の中で、そっと声を出した。だが、返事はない。
「確か、この辺りから聞こえたんだよな」
呟きながら、そっと周りを見回した。
人の気配はない。だが、確かに声が聞こえたのだ。それも、井川と思われる男の声である。
永井は、さらに一歩踏み出す。その時、異変が起きた──
突然、足元の土が動いたのだ。永井はバランスを崩し、仰向けに倒れる。
直後、周囲の土が不自然に盛り上がった。永井の顔に次々と降りかかっていく。
永井は必死でもがいた。何が起きているのかわからぬまま、両手で土を払い落とす。しかし、鼻や口の中に土は入っていた。呼吸が苦しくなり、思わず咳き込む。
その開いた口の中に、今度は植物が入り込んだ。喉の奥まで侵入していき、永井の気道を塞いでいく。
永井は、どうすることもできなかった。倒れたまま、恐ろしい苦痛を味わいながら死んでいった……。
しばらくすると、周囲の土や草が動き出した。永井の死体を、その場から速やかに運び出す。滑るような動きで、死体は運ばれていった。
◆◆◆
「君、公生くんじゃないか」
いきなり声をかけられ、公生は慌てて振り向いた。
声の主は百目鬼であった。初めて会った時と同じく、にこやかな表情でこちらに近づいて来る。一見すると、虫も殺さぬ温厚な人間に見える。
だが、公生は知っていた。この男は人殺しだ。それも、十人以上を殺害して死刑判決を受けた男である。
しかも、ペドロはこう言っていた。
(百目鬼さんはね、君のような少年を自らの手で殺すことに快感を覚える、そういう性癖なのさ)
公生は、さっと立ち上がった。百目鬼から目を離さず、少しずつ後ずさっていく。
「こんなところで、何をしているんだい?」
一方、百目鬼はこんなことを聞いてきた。笑みを浮かべつつ、こちらに近づいている。敵意は全く感じられないが、かといって近づいて欲しくもない。
そこで思いついた。もうじきペドロが来ると言えば、さすがに手は出さないだろう。
「ペドロさんに、ここで待っていろと言われたので待っています。たぶん、もう来ると思いますよ」
「ほう。実は、私もペドロさんに用があるんだ。では、ここで一緒に待たせてもらおうか」
そう言うと、百目鬼はその場に腰を下ろしたのだ。
公生としては、あまり好ましくない状況である。こんな男に、そばにいて欲しくはない。
「ペドロさんは、何をしているのかな?」
不意に百目鬼が聞いてきた。そんなこと、公生が知るわけもない。
「さあ、わかりません。あの人の考えることは凄すぎて、僕にはさっぱり……」
「そうか、君にもわからないか」
そう言うと、百目鬼は再び立ち上がった。公生のそばに近づいて来る。
公生は危険を感じ、後ずさっていく。その時、百目鬼の表情は一変した。
「なぜここに来た? 君が悪いのだよ。君さえいなければ、僕はこんな気分にならなかった」
異様な目つきで、そんなことを言ってきた。その目から発する不思議なものに囚われ、公生は動くことができない。
次の瞬間、百目鬼が襲いかかってきた。公生は、抵抗もできず倒される。
百目鬼の手が、公生の首に伸びる。その時、不思議なことが起きた──
突然、空から一滴の水が落ちてくる。晴れ渡った空なのに、有り得ない現象だ。
その一滴の水は、百目鬼の後頭部に落ちた。続いて、もう一滴。水滴は、正確に百目鬼の後頭部へと落ちる。
さすがの百目鬼も、何事かと空を見上げた。その瞬間、今度は水滴が鼻の穴に入った。
水滴は鼻の穴を通り、気管へと到達する。反射的に声門がビタリと閉じた。
途端に、喉頭痙攣が起きる。一滴の水が、百目鬼の肉体に「溺れた」と錯覚させるほどのダメージを与えたのだ。
百目鬼は、たまらず立ち上がった。どうにか呼吸しようと、無我夢中で走り出す。だが、そこでバランスを崩して倒れた。途端に、グキリという音が響く。
やや遅れて、公生は立ち上がった。百目鬼から、慌てて逃げ出す。
しかし、逃げる必要などなかった。百目鬼は、既に息絶えていた。おかしな体勢で転倒した拍子に、首の骨を折ってしまったのだ。
その一部始終を、じっと見ていた者がいた。ペドロである。
「公生くん、俺はようやく君の正体がわかったよ。世の中は、本当に広いのだな。まさか、君のような人間が実在するとは思わなかったよ」
◆◆◆
被験体Nに続き、被験体Dの死を確認確認確認確認確認……。
おかしい。
おかしなことが起きた。有り得ない。変だ変だ変だ変だ変だ変だ……。
先ほど、被験体Dが被験体Tを執着……いや襲撃。だが、Dは死んだ。死因は転倒によるもの。だが、陸の上でDは溺れていた。なぜ陸で溺れる?
その前に、空から水が落ちてきた。Dのみを直撃する雨。
雨? どこに降っていた? 雨など、どこにも降っていない。
何が起きた? 何が起きている? そもそも、Tは何者だ? なぜここにいる?
Tが、ごく局地的な飴を……雨を……いや、降水現象を発生させたというのか? ない。有り得ない。そんなこと、あってはならない。
理解不能理解不能理解不能理解不能──
わかった。
Tこそが、世界のバグなのだ。存在してはならない者。あれを削除することにより、世界は本来の秩序を取り戻す。
被験体Tを、観測者Pもろとも削除する。




