ペドロという男
ペドロは、公生に向かいゆっくりと手を伸ばしてきた。顔には、喜怒哀楽のどの感情も浮かんでいない。だが、それがかえって恐ろしい。
公生は怖かった。できることなら、今すぐこの怪人から離れたかった。だが、できなかった。蛇に睨まれた蛙のごとく、全身が硬直し動くことができなかったのだ。
ペドロの手が、少年の肩にそっと触れた。途端に、公生の体に異様な感覚が走る。まるで、巨大な肉食獣に触れられたようだ……。
その時、ペドロが口を開く。
「これからの生活について、言える範囲で説明する。だから、落ち着いて聞きたまえ。まず、一日に一回、食料と水が運ばれてくる」
不思議なことに、ペドロの声を聞いた途端、体の硬直が解けたのだ。公生は力が抜け、その場に崩れ落ちる。
そんな少年に向かい、ペドロはなおも語り続ける。
「見たところ、君は頭のキレる方ではないな。考察力もない。そんな君が、この島で生活するとなると、ひとつの問題が生じる。今日、この島に危険な人間が集められた」
「どんな人ですか?」
公生は不安そうに聞いた。危険な連中とは、ヤンキーや暴走族みたいな連中だろうか。
しかし、ペドロの答えは予想外のものだった。
「詳しいことは知らないが、全員が人殺しのはずだ」
聞いた瞬間、公生は愕然となる。これから先、人殺しと共に生活せねばならないのか。
「そ、そんな……」
「心配することはない。彼らとて、さすがにこの状況で人殺しはしないよ。おそらくは、ね」
「おそらく、ですか……」
心配するなと言われても、安心することなどできない。
知らない間に誘拐され、見知らぬ島に来てしまった。それだけでも悪夢のような出来事なのに、人殺しが徘徊しているというのか。
「ただね、彼らには君の常識が通じない。人を殺すという行為は、他の犯罪とは明確に異なる。いわば、人としての境界線を越えてしまった者たちだ。君にとって、付き合いやすい人間とは言えないだろうね」
そう言うと、ペドロはニヤリと笑った。不気味な笑顔だった。聞いている公生は、さらに不安が増してきた。
「あの、僕はいつ帰れるんですか?」
震える声で尋ねたが、ペドロの答えは非情なものだった。
「いつかは帰れる、かもしれない。悪いが、これ以上は言えない」
「それ、どういうことですか? 帰れるのか帰れないのか、はっきりしてください!」
叫んだ公生だったが、ペドロは落ち着いた態度で答える。
「その質問には答えられないな。今の君にできることはひとつ。この島で生きていくしかないのさ」
途端に、公生は崩れ落ちた。
この、理不尽としか言いようのない状況……しかも、帰れるかどうかもわからない。こんなことが、あっていいのだろうか。
その時、公生の目から涙が流れる──
「こんなのひどすぎるよ。なんで僕が、こんな目に遭わされるんだ……僕が何をしたっていうんだ」
震える声で、思いのたけを語った公生。目からは、とめどなく涙が溢れ落ちていく。
その時、ペドロが口を開く。
「泣いたところで、状況は好転しないよ。まず、泣いても誰も助けてくれない。次に、視界が涙で塞がれることになる。その時、目の前に人殺しが現れたらどうなる? 考えてみたまえ」
「じゃあ、どうしろって言うんですか!?」
公生は怒鳴りつけた。ペドロへの恐怖よりも、この理不尽な状況への怒りが勝っていたのだ。
しかし、ペドロのペースは変わらなかった。
「簡単さ、一日一日を生きていく。それしか、君の選択肢はないのだよ。それとも、運命を呪って自殺でもするかい? 俺は止めないよ」
自殺という言葉を聞いた瞬間、公生の顔色が青くなった。同時に、かつての記憶が蘇る。
その瞬間、公生は心を決めるしかなかった。震えながら答える。
「わかりました」
涙を拭いて答えた公生を、ペドロはじっと見つめる。その顔には、動物を観察する学者のような表情が浮かんでいる。
「わからないな。君と話していても、何も見えてこない。どこから見ても、普通の高校生だ。君は、なぜこの島に来たのだろうね」
「そんなの、知るわけないじゃないですか。僕の方が聞きたいですよ」
いじけた声で答えた公生に、ペドロは苦笑する。
「そうか、知らないか。まあ、そうだろうね」
悲しいなどと言っているが、ペドロの声から悲しみは感じられない。むしろ、公生の不幸を嘲っているかのような感じであった。
少し苛つくものを感じたが、今はそれどころではない。
「ここで、僕は何をすればいいんですか?」
「特に何もしなくていい。おとなしく生活すれば問題はないだろう。ただし、島のルールを破った者は殺される」
途端に、公生の表情が歪む。人殺しと生活せねばならない上、ルールを破ったら殺されるとは……この島は、悪魔が作ったのだろうか。
「そのルールってなんですか?」
予想もしていなかった言葉に、公生は勢い込んで尋ねた。しかし、ペドロの答えは冷たいものだった。
「すまないが、俺も詳しくは知らない。それ以前に、君には教えられない」
「な、なぜですか?」
「そういう契約だ。教えられる範囲は限られているし、聞かれれば答える。あとは、自分の目や耳で観察し学んでいくしかない。でなければ、ここで生き延びることなどできないよ」
そんな……と言いかけたが、そこでようやく気づいた。
「こんなこと、許されるわけないじゃないですか! 誘拐して、人を殺すなんて……絶対に警察が動きますよ!」
対するペドロは、しょうがないな……という顔つきで口を開く。
「本当に何もわかっていないのだね。いいかい、今の君は単なる行方不明者でしかない。ひとりの行方不明者の捜索に、警察がどれだけの人員を割くと思うんだい? おそらくは、高橋公生、行方不明と警察のリストに記録されるだけだ」
「どういうことですか!?」
公生が言った時、ペドロは向きを変えた。後方にある茂を見つめる。
「そろそろ出てきてもいいのではないかな、そこに隠れている人」
何を言っているんだ……と公生が思った時、茂みがガサリと揺れた。次いで、立ち上がった者がいる。
現れたのは、赤い作業服を着た男だった。年齢は四十代から五十代、ペドロと同じくらいの身長だ。もっとも、体つきはまるで違う。脂肪に覆われた小太りの肉体だ。髪は薄く、耳の周りに僅かに生えているだけだ。
目は細く、柔和な顔立ちである。申し訳なさそうな表情を浮かべており、人畜無害なタイプに思えた。
しかし、ペドロの話を信じるなら、この男も人殺しなのだ。いつから隠れていたのだろう……そんなことを思う公生に向かい、男はペコリと頭を下げた。次いで、ペドロにも頭を下げる。
「いや、盗み聞きするつもりはなかったのですが……結果的に、そうなってしまいましたね」
気の弱そうな雰囲気だが、まともな常識人に見える。少なくとも、ペドロとは真逆のタイプに思えた。
公生はホッとした。ここで、またペドロのような怪人に出てこられたら、完全にお手上げだ。
しかし、その印象は間違っていた。
「俺はペドロ、彼は高橋公生くんだ。あなたの名前は?」
ペドロが不意に尋ねた。男は、一瞬ではあるが困惑したような表情を浮かべた。だが、すぐに答える。
「あっ、佐藤智也です。いやぁ、参っちゃいましたよ。家で寝てて、目覚めたらこんな場所にいましたからね」
そう言って、男は笑った。しかし、ペドロはニコリともしない。
「あなたは、嘘をついているね」
冷ややかな口調で放たれた言葉に、男の表情が変わる。
「は、はい? な、何を言っているんだ?」
引きつった表情で応じたが、ペドロは冷静な口調でなおも語っていく。
「これで、ひとつわかったことがある。あなたが、嘘をつき慣れているということだ。普通、名前を聞かれて咄嗟に偽名を答えられる者はいないからね」
横で聞いている公生は、唖然となっていた。なぜ、この赤服の中年男の言うことが嘘とわかるのか? 全く見当もつかない。
その時、ペドロは公生の方を向いた。
「わかったかい、公生くん。この世の中は、嘘と欺瞞と、ほんの少しの真実によって構成されているのさ」




