特性
「あの、すみません!」
前を行くペドロに、公生は早足で歩きつつ声をかけた。
「なんだい?」
「沖田さんのパンチ、相当くらってたみたいですけど、痛くなかったんですか?」
「そうか。君の目には、そう見えたのだね。残念ながら、それは間違いだ。彼のパンチは、一発も当たっていない」
「えっ……」
「打ってきたパンチを、大きな動作で避ける。これは、傍目にも避けたことがわかる。しかし、さっきのように最小限の動きで避けるとなると、遠目には当たっているように見えてしまう。実際には、ギリギリで躱していたのさ」
「は、はあ……」
それ以上、公生には何も言えなかった。
言われてみれば、沖田のパンチが放たれた瞬間、ペドロの体がピクッと動いていた……ような気はする。だが、まさかそんなことをしていたとは思わなかった。
完全に、公生の理解できる範疇にいない人間だ。
絶句している公生をよそに、ペドロは動き始めた。しゃがみ込むと、地面の土にそっと触れた。慎重な動作で、土や草の感触を確かめている。
何をしているのだろう……と公生は思ったが、それよりも他に聞いておきたいことがある。
「あ、あの……」
だが、公生はそこで口を閉じた。今からしようとしている質問は、プライベートに踏み込み過ぎな気がしたのだ。
彼にも言いたくないことはあるだろう。やめておいた方がいい……という判断により、公生はその質問をやめた。
しかし、ペドロはこちらを見上げる。
「なんだい?」
「何でもないです。大丈夫ですから」
そう言って、公生は笑った。あやふやなヘラヘラ笑いでごまかそうとしたのだ。
だが、ペドロはそんなやり方で引いてくれるほど甘くなかった。
「何が大丈夫なのかな。君は今、俺に質問をしようとしていた。ところが、寸前で押し留めた。おそらく、その質問ほ俺のプライベートに踏み込んだ内容だったのではないかな」
その時、公生は本気で笑ってしまった。
ここまで来ると、もう笑うしかないだろう。公生の心の中に浮かんだ質問の内容まで察知するとは……もう、この人ひとりを送り込めば、小さな国の紛争くらい解決できるのではないか。
その時、ペドロの表情が変わる。スッと立ち上がった。
「何がおかしいのかな? 俺の言葉は、そんなに笑えるものだったのかい?」
その瞬間、公生の心臓は跳ね上がった。怒らせてしまったのか。
「い、いえ! これは、その、あまりにも洞察が凄くて笑うしかない、という……」
すると、ペドロはクスリと笑った。
「わかっている。冗談だよ。沖田くんの言う通り、君のリアクションは見ていて面白いな。それはともかくとして、何か聞きたいことがあるなら言いたまえ」
そういう冗談はやめてくれよ、あんたのはシャレならんから……と心の中で呟きながら、公生はそっと尋ねる。
「あの、さっき刑務所に入っていた、と言ってましたが……」
「ああ、俺はアメリカのレイカーズ刑務所に入っていたよ」
「あの、どんなところでした?」
公生の口から出たのは、そんな質問だった。本当は「何をして刑務所に入ったんですか?」と聞きたかった。しかし、さすがにそれは聞けなかった。
「面白みのないところだよ。当時、収容されていたのは、マフィアの幹部やギャングのリーダー、それに連続殺人犯といった面々さ。井川さんや小林くんのような者が大勢いる、と言えば君にもわかるだろう」
静かな口調でペドロは語った。彼から見れば、マフィアの幹部も井川も同レベルに見えるらしい。思わず笑いそうになった公生だったが、次の言葉で笑いは引っ込んだ。
「たまに、ベアナックル・ファイトという催しがあった。あれは、いい退屈しのぎになったよ。だが、途中から参加できなくなった。残念だったね」
「べ、べあなっくるふぁいと?」
「そう。これは、簡単に言うなら素手の喧嘩だ。受刑者や刑務官らの見守る中、一対一で闘う。俺は、そのベアナックル・ファイトで九十連勝した」
「じゃあ、チャンピオンだったんですか?」
公生の口から出たのは、そんな間抜けな質問だった。ペドロはクスリと笑う。
「残念ながら、チャンピオンの称号はもらえなかったよ。それでも、退屈しのぎにはなった。三百六十ポンド……いや、君にはポンドじゃわからないか。百六十キロの大男もいたし、プロボクサーだった男や武術の達人と称する男もいた」
公生は絶句するしかなかった。そんな化け物たちと闘って、勝ち抜いて来たのか。ならば、沖田など相手にならないのも当然だ。
しかし、次にペドロの口から出た言葉は、公生をさらなる混乱の世界へと突入させる。
「ただ……そんな連中と闘うより、君と話す方がずっと面白い」
「ぼ、僕とですか?」
びっくりして聞き返した公生だったが、ペドロは頷く。
「ああ。率直に言うが、俺には君という人間にあるはずのものが見えてこない。本当に不思議だ。今まで、君と生活を共にしてきたが、十六歳の少年以外の何者でもなかった」
いや、それはその通りだよ。それの何が不思議なんだろうな……などと混乱しつつ内心で呟く公生だった。
そしてペドロは、混乱している公生に構わず話を続ける。
「俺の脳には、ひとつの特性がある。潜在抑制機能障害というものだが、わかるかな?」
公生にわかるわけがなかった。センザイだのヨクセイたの言われて、さらに混乱するばかりだ。
すると、ペドロは苦笑した。公生の思いを察したのだ。
「これはすまない。まあ、知らなくても恥ではないし、生きていく上では何の問題もないからね。説明すると、この障害を持った人間は、視界に入るものが全て情報として脳に入って来てしまうのさ」
いや、それは当たり前のことじゃないか。わけがわからないよ……と思う公生だったが、次の言葉でようやく理解する。
ペドロは、リュックを持ち上げ指さした。
「例えば、このリュックだ。君はこれを見て、リュックだと認識する。しかし、俺には君とは違うものが見えてしまう。もちろん、リュックであることは理解しているが、それだけではない。構成しているひとつひとつの部品や素材、それを留めている小さな金具なども、全て情報として入って来てしまうのさ」
聞いていた公生は、リュックに視線を移す。
言われてみて気づいたが、リュックは複数の部品により形作られている。それは理解できた。
しかし、毎回そんなことをしていてはおかしくならないか……などと思う公生であったが、次の瞬間に表情が変わった。
「この特性を持つと、ほとんどの場合が心を病んでしまうそうだ。大量に入ってくる情報を脳が処理しきれず、外界を遮断し己の中にこもってしまう。幸か不幸か、俺はそうならずに済んだがね」
恐ろしい告白に、公生は呑まれてしまい何も言えなかった。このペドロという男は、普通の人間ならおかしくなってしまう特性を持ちながら、何事もなかったような顔で生きていると言うのか。だとすれば、とんでもない怪物だ。
だが、そこで閃くものがあった。
「あの、前に他人の顔や仕草を見ただけで、だいたいのことはわかると言ってましたね?」
「ああ、言ったよ」
ペドロは、微笑みながら頷いた。どうやら、公生の考えたことを理解したらしい。
「それって……見ただけで、いろんな情報が入ってくるからですか?」
「それが全てではないが、大きな要因であるのは確かだね。そして俺の脳には、今も君の様々な情報が流れ込んできている。しかし、それらの情報のひとつひとつを分析して出た結果は……君は、普通の少年だということだ」




