一匹の猫が、あなたの罪を忘れない――恐怖の夜に、怨返しが始まる。
彼女との約束、焦る心、夜の街を飛ばすタクシー。 完璧な夜になるはずだった。 あの不気味な運転手が、ゆっくりとこちらを振り向くまでは――。
男は焦っていた。
夜九時。彼女との約束の時間は、もう過ぎている。この時間では、もう彼女は待ち合わせ場所にいないかもしれない。
男は縋るような思いで、通りかかったタクシーに飛び乗った。
「どちらまで?」
間の抜けた運転手の声がもどかしい。
「急いでるんだ。悪いが、飛ばしてくれないか」
「……わかりました。大急ぎで行かせてもらいます」
無愛想で機械的な低い声とともに、タクシーは夜の街へ滑り出した。
ジャケットのポケットには、彼女へのプレゼント――指輪の小箱今夜、プロポーズするつもりだった。
窓の外、街の明かりが色とりどりに過ぎていく。
しかしその景色は焦燥感を煽るだけで、男の心を落ち着けはしない。
――その時だった。ガツッ――!
鈍い衝撃とともに、頭上を飛び越えていく女の悲鳴。
男は弾かれたように辺りを見回した。
リアウインドウの向こう、白いワンピースの女性が、スローモーションのように宙を舞い、遠ざかっていく。
事故だ。この運転手、人をはねやがった。
しかし車は一向に止まらず、夜の闇を突き進む。
「おい、今、人をはねたぞ!」
「ハイ、わかってますよ」
「止まれ! 警察か救急車を呼ばなきゃ!」
怒声を遮るように低い声が返る。
「だってお客さん、急いでるんでしょ?」
逆上した男は運転手の肩を強く揺さぶる。
「そんな場合か! 引き返せ!」
運転手は笑った。
「……あれぇ、おかしいなぁ、お客さん。私を轢いたときは、そんなこと言わなかったじゃないですか」
「……お前を轢いた?」
「そうです、ちょうど一年前の夜。覚えていませんか?」
ゆっくりと振り向いた運転手。
その顔は、白地に右目の周りだけが黒い毛で覆われた「猫」だった。
ギラリと光る青い目に、男は覚えがあった。
―― ちょうど一年前、彼女の誕生日の夜。男は約束に急ぎながら、路上で一匹の猫をはねた。
「どうせ猫だ」
そう思い、そのまま走り去ったのだった。
しかし今、あの青い瞳が目の前にある。
「やっと思い出していただけましたね。あなたが私を放置したせいで、この額はいまだに血が止まらないんですよ」
猫が帽子を取り、額の傷から鮮血が滴り落ちる。
「オ、オレをどうしようって言うんだ!」
「殺したりはしませんよ。それより、もっと『いいこと』があります」
猫は口角を歪めて残酷に笑った。
「今、轢いたのはあなたの彼女です……もう、助からないでしょうね」
後ろを振り返ると、暗闇だけが広がっていた。
「引き返せ!」
前を見ると、猫の声が追い打ちをかける。
「あなたが、彼女を殺したんですよ」
「何言ってるんだ! オレは運転していない!」
「ええ? これはあなたの車。ほら、フロントガラスに血もついている。……そして、あなたがハンドルを握っている」
気づくと、男は運転席に座っていた。スピードメーターの針は異常な速度を示す。
「フフフ、人殺し、人殺し、人殺し……」
猫の声が浮かんでは消える。
フロントガラスを三本の血の帯が流れ落ちた。
「ウソだ、やめろ!」
狂ったようにアクセルを踏んだ瞬間、視界は白光に包まれた。
ドォォンッ――衝撃が全身を貫く。
……そこは交番だった。薄れる意識の中、警官の顔がぼんやり見えた。
「しっかりしろ!」
――半年後。
男は殺人、死体遺棄、建造物損壊の容疑で法廷に立っていた。
額には、猫に爪で引き裂かれたかのような三本の深い傷が、醜く刻まれていた。
(終)
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