第9話:翌朝、父(公爵)へのプレゼンテーション
翌朝。ヴァレンタイン公爵邸の空気は、冬の湖面のように張り詰めていた。
当主の執務室。重厚なマホガニーの机を挟んで、父と娘が対峙している。
父、ヴィクター・ヴァレンタイン公爵。
このルミナス王国の法務大臣を務め、「氷の宰相」の異名を持つ冷徹な合理主義者だ。魔法至上主義の貴族社会において、法と論理で秩序を維持するその手腕は、国王でさえ一目置くほどである。
ヴィクターは手元の書類に目を落としたまま、羽ペンを走らせていた。娘が部屋に入ってきても、顔を上げようともしない。
沈黙。聞こえるのは、カリカリという硬質なペン先が紙を削る音だけ。
普通の令嬢なら、このプレッシャーだけで泣き出していただろう。
「……昨夜、王家主催のパーティで派手な『実験』を行ったそうだな」
数分後、ヴィクターがようやく口を開いた。声に温度はない。
「おかげで私の朝食は、貴族院からの苦情の手紙で埋まったよ。『お宅の娘は魔女か』とな」
「それは偏った栄養(情報)バランスですね、お父様」
スカーレットは直立不動のまま、表情一つ変えずに切り返す。
「消化不良を起こされる前に、こちらのサプリメント(報告書)をご覧ください」
彼女は徹夜で作成した、辞書のように分厚いレポートの束を机の上に置いた。
ドサリ、と重い音が響く。
「……婚約破棄された娘が、謝罪の言葉ではなく報告書か」
ヴィクターが手を止め、冷ややかな視線を娘に向けた。
「で? 王太子の婚約者という地位を失ったわけだが。お前の市場価値は暴落したぞ、スカーレット」
「いいえ。『不良債権の損切り(カット・ロス)』に成功しました」
スカーレットは迷いなく断言した。
その言葉選びに、ヴィクターの片眉がピクリと動く。
「不良債権、だと? 次期国王を捕まえてか」
「はい。ブラッドリー殿下は、情報の真偽を確かめず、一時の感情で動く人物です。彼が将来国王になれば、その妻は一生、彼の尻拭いで過労死するでしょう」
スカーレットは淡々と、しかし容赦なく元婚約者を「評価」する。
「公爵家にとっても、そのような情緒不安定な王族との縁戚関係は、長期的にはリスク要因(負債)でしかありません。株価が紙屑になる前に売り払った……経営判断としては妥当かと」
「ふん。……口だけは達者だな」
ヴィクターは鼻を鳴らしたが、その目から侮蔑の色は消えていた。彼は合理的な男だ。娘の言い分に理があることを即座に理解したのだ。
「だが、損切りをしただけでは利益にはならん。お前が失った『王太子の婚約者』というカードの代わりに、何を提示できる?」
ここからが本題だ。
スカーレットは眼鏡の位置を直し、プレゼンテーションを開始する。
「新たな市場の開拓を提案します」
「市場?」
「はい。昨夜、私が実証した『物理的証拠による立証』。この技術を体系化し、新たな捜査手法――『法科学』として確立します」
彼女は身を乗り出し、父の野心を刺激する言葉を紡ぐ。
「現在、魔法警察は現場の独断で動いており、法務省のコントロールが効きにくい状態です。『魔法でそう出たから』と言われれば、魔法使いでない官僚は反論できませんから」
「……ああ。現場の暴走には頭を悩ませている」
「しかし、私の技術を使えば話は別です」
スカーレットはニヤリと笑った。
「指紋、成分分析、痕跡……。客観的なデータがあれば、魔法使いの『感覚』による嘘を暴き、彼らを管理下に置くことができます」
「ほう……」
「つまり、お父様が長年欲しがっていた『魔法使いを黙らせる首輪』を、私が作れるということです」
ヴィクターは沈黙し、スカーレットをじっと見つめた。
その鋭い眼光は、もはや娘を見る親の目ではない。有益な取引相手を値踏みする、政治家の目だ。
スカーレットもまた、目を逸らさない。
同時に、ユニークスキル【微細構造解析】を発動し、父の表情筋の僅かな動きを読み取る。
(瞳孔が〇・二ミリ拡大。口角の筋肉が弛緩……。興味(関心)あり。怒りのホルモン分泌は観測されず)
(――落ちたわね)
数秒の静寂の後、ヴィクターは口元を歪めた。
「……フン。お前が男であれば、即座に私の後継者にしたのだがな」
それは、この冷徹な父からの、最大級の賛辞だった。
彼はレポートを手に取り、パラパラと捲る。
「よかろう。勘当はせん。修道院行きも取り消す」
「賢明なご判断です」
「だが、公爵家の予算はやらんぞ。その怪しげな『科学』とやらが本当に金になるというなら、自分でスポンサーを見つけてみろ。……泳げなければ沈むだけだ」
突き放すような言葉だが、スカーレットにはそれが「自由にやれ」という許可証に聞こえた。
彼女は優雅にカーテシーを行う。
「ご配慮、感謝します」
(予算カットは想定内。むしろ、公爵家の紐付きでない方が動きやすいわ)
「スポンサーのアテでしたら、既にございますので」
「……何?」
スカーレットが退出の挨拶をしようとしたその時、執事が銀の盆を持って入室してきた。
「旦那様、お嬢様。……お嬢様宛に、手紙が届いております」
「私に?」
盆の上には、一通の封筒が乗せられていた。
差出人の名前はない。漆黒の、厚みのある封筒だ。
スカーレットはそれを手に取り、鼻に近づけた。
(インクの匂い。そして、微かな鉄錆と……地下特有の湿気たカビの臭い)
普通の貴族令嬢なら顔をしかめる悪臭だ。
だが、スカーレットの嗅覚は、その奥にあるもう一つの香りを捉えていた。
(……カカオ? それも、最高級品ね)
地下の湿気と、甘いお菓子の香り。
そんな矛盾した匂いを纏う人物を、彼女は一人しか知らない。
昨夜のパーティ会場、バルコニーの陰から鋭い視線を向けていた、もう一人の王子。
「……地下室からのラブレター(招待状)ね。気が早いわ」
スカーレットは封筒をポケットにしまうと、父に向き直った。
「それでは失礼します、お父様。……早速、『次の出資者』との面談がありますので」
彼女は父の部屋を出て、廊下を歩き出す。
その足取りは軽い。
目指すは王宮の影。光の当たらない場所で待つ、共犯者の元へ。




