第8話:退場、そして興味深げな観察者
ズゥン……。
大講堂の重厚な樫の扉が閉ざされ、会場内の喧騒が遮断された。
夜の王宮の廊下は、打って変わって冷たい静寂に包まれていた。石造りの床を叩くヒールの音だけが、コツコツと響く。
人気のない回廊の曲がり角を過ぎた瞬間、スカーレットは壁に背中を預け、大きく息を吐き出した。
「……はぁ。疲れた。脳のグリコーゲンが枯渇したわ」
さっきまでの、王族さえも畏怖させる「断罪者」の仮面はどこへやら。そこにいたのは、激務を終えてガス欠寸前の、年相応の少女の姿だった。
実験(断罪)中はアドレナリンで誤魔化せていたが、やはりカロリー消費は激しかったらしい。
「お疲れ様でした、お嬢様」
影のように控えていた侍女のレイブンが、スッと懐から何かを取り出した。
銀紙に包まれた、四角い物体だ。
「カカオ分八十五パーセント。特製ビターチョコレートでございます」
「愛してるわレイブン。貴女こそ私の真の騎士よ」
スカーレットはひったくるようにそれを受け取り、包みを開いて口に放り込む。
濃厚なカカオの苦味と、微かな甘みが口いっぱいに広がる。
糖分が血管を駆け巡り、オーバーヒートしていた脳細胞を冷却していく快感に、彼女は身を震わせた。
「んん……復活。やはり、思考の維持には適切な糖分補給が不可欠ね」
「素晴らしい食いっぷりで。……ところで、よろしかったのですか?」
レイブンは、騒ぎの続く大講堂の方角へ視線を向けた。
「第一王子をあそこまで追い詰めて。国王陛下もご介入されたようですし、ヴァレンタイン家への報復や、政治的な圧力も懸念されますが」
「来るでしょうね。間違いなく」
スカーレットは二個目のチョコを齧りながら、他人事のように答える。
「でも、お父様(法務大臣)は『感情』ではなく『損得』で動く人よ。私が示した『有能さ』と、ブラッドリー殿下が示した『無能さ』。その二つを天秤にかければ、どちらを切り捨てるべきか、あの冷徹な父なら一瞬で計算するはずだわ」
「……なるほど。旦那様の合理主義は、お嬢様譲りですからね」
「逆よレイブン。遺伝学的に言えば、私が父から形質を受け継いだの」
スカーレットは口元のチョコを拭い、夜空を見上げた。
そこには、皮肉なほど美しい満月が浮かんでいる。
「それに、これでやっと自由になれた」
彼女の声は弾んでいた。
「王妃教育なんて非効率な時間から解放されて、これからは研究に没頭できるわ。王子から搾り取る慰謝料で、最新の顕微鏡と遠心分離機を買うの。楽しみね」
「……たくましいお方です」
スカーレットはドレスの裾を翻し、軽やかな足取りで歩き出す。
その背中には、婚約破棄された悲壮感など微塵もなかった。あるのは、新しい実験機材への期待だけだ。
◇
一方その頃。
大講堂の二階、一般には開放されていない貴賓用バルコニー。
重厚なベルベットのカーテンの陰から、一部始終を見下ろしていた人影があった。
プラチナブロンドの髪に、氷河のようなアイスブルーの瞳。
整った顔立ちだが、その表情は彫像のように冷たく、近寄りがたい空気を纏っている。
ルミナス王国第二王子、レオンハルト・フォン・アークライトである。
「……信じられませんね」
傍らに控えていた側近が、震える声で呟いた。
「魔法を一切使わずに、あの『完全な証言』を覆すとは。……恐ろしい方です、ヴァレンタイン公爵令嬢は。まるで魔女だ」
「恐ろしい? 違うな」
レオンハルトは、スカーレットが去っていった扉を見つめながら、口元を僅かに歪めた。
「あれこそが『正義』だ」
「は……? 殿下、今なんと?」
「魔法による誤魔化しが一切ない、純粋な論理の剣だ。……美しいな」
側近は耳を疑った。
「氷の王子」とあだ名される主君が、女性に対して「美しい」などという感想を漏らすのは初めてだったからだ。しかも、相手は先ほど、実の兄である第一王子を社会的に抹殺したばかりの「悪役令嬢」である。
だが、レオンハルトの瞳に宿っているのは、恋心などという甘いものではなかった。
それは、切れ味の鋭い「武器」を見つけた時の、武人の目に近かった。
「……この国は病んでいる」
レオンハルトは手すりを強く握りしめた。ミシミシと音が鳴る。
「兄上も、あの場の貴族たちも、誰も『自分の頭』で考えていなかった。魔法という便利な力に溺れ、涙や感情論に流され、真実を見る目を失っている」
「…………」
「魔法は万能ではない。だが、この国の司法も警察も、魔力反応だけを絶対視し、そこにあるはずの事実を見落とし続けている。……腐っているんだ、根幹から」
彼は懐から、一冊の薄汚れた捜査資料を取り出した。
黒い革表紙には【未解決:魔導卿密室死】というラベルが貼られている。
「魔法捜査局が『病死』と断定し、捜査を打ち切った事件だ。だが、俺はどうしても納得がいかない。あれは他殺だ」
「ですが殿下、現場は完全な密室。毒の魔力反応もゼロでした。殺害など不可能です」
「ああ。魔法使いにはな」
レオンハルトは資料をめくる。そこには、苦悶の表情で死んだ老人のスケッチが挟まれていた。
「魔力がないから無罪。見えないから存在しない。……そんなザル法がまかり通るなら、魔力を持たない知能犯にとって、ここは狩り場も同然だ」
彼は長年、探していたのだ。
魔力という色眼鏡を通さず、ありのままの世界を解剖できる「目」を持つ人間を。
そして今夜、彼は見つけた。
暗闇の中で青い光を灯し、見えない証拠を鷲掴みにしてみせた、あの赤髪の令嬢を。
「……彼女なら、聞こえるかもしれん」
「何がですか?」
「死者の声だ。魔法使いには聞こえない、無念の叫びがな」
レオンハルトは側近に振り返り、黒い封筒を差し出した。
「招待状を送れ」
「ヴァレンタイン公爵令嬢に、ですか? 王宮の茶会にお招きを?」
「まさか。そんな華やかな場所は、彼女の性分には合わんだろう」
レオンハルトは皮肉っぽく、しかし楽しげに笑った。
「場所は王宮の地下、北棟の最下層だ。かつて異端審問所として使われ、今は誰も寄り付かない『第零班』の執務室……いや、あのゴミ捨て場こそ、彼女の新しい城に相応しい」
側近は絶句したが、主君の目は本気だった。
レオンハルトは再びバルコニーから夜空を見上げる。そこにはスカーレットが見上げたのと同じ月が輝いていた。
「来い、スカーレット。俺の『探偵』になってくれ」
月明かりの下、二人の運命の歯車が噛み合う音がした気がした。
一人は、魔法に絶望した王子。
一人は、科学を信奉する悪役令嬢。
出会うはずのなかった二人が手を組む時、この国の「嘘」が暴かれる。
そう予感させる夜風が、王都を吹き抜けていった。




