表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/73

第72話:心拍数とドーパミンの答え

 星見のテラスに、夜風が吹き抜ける。

 レオンハルトの腕の中で、スカーレットは硬直していた。

 抱きしめられることには慣れたつもりだった。病室でも、彼に抱きしめられ、その体温に触れた。

 だが、今夜は違う。

 左手の薬指にはまった「印鑑指輪」の重みが、この接触の意味を決定的に変えている。


 ――契約成立。

 ――生涯のパートナー。


 その事実が脳にインプットされた瞬間、彼女の身体に異変が生じた。


(体温、急上昇。発汗。思考回路に深刻なノイズ発生)


 顔が熱い。指先が痺れる。呼吸が浅くなり、視界がチカチカする。

 まるで、高濃度の神経毒を浴びた時の初期症状に似ている。


「……スカーレット?」


 レオンハルトが心配そうに顔を覗き込んでくる。

 その至近距離の顔を見た瞬間、スカーレットの心臓が爆発的に跳ねた。


 ドクンッ!!


「っ……!?」


 彼女は反射的に彼の胸を押し、一歩後ずさった。

 そして、自分の左手首(橈骨動脈)に右手の指を当て、秒数をカウントし始める。


「……おい。プロポーズの返事をするって時に、脈を測る女がいるか?」


 レオンハルトが呆れ顔で突っ込む。

 だが、スカーレットは真剣そのものだった。


「静かに。バイタルチェック中です」


 彼女は早口で数値を読み上げる。


「心拍数、安静時にも関わらず一二〇bpm突破。血圧上昇。瞳孔散大。アドレナリンおよびドーパミンの過剰分泌を確認」

「……だから?」

「殿下。これは病気です。甲状腺機能亢進症か、あるいは未知の神経毒に侵されています。直ちに精密検査を……」


 彼女は本気で混乱していた。

 これまで、彼女は自分の感情を常に「脳内物質の化学反応」として客観的に処理してきた。

 だが、今の反応は、彼女の制御コントロールを遥かに超えている。

 未知のエラー。システム障害。


「……はぁ」


 レオンハルトは深くため息をつき、苦笑した。

 そして、一歩近づく。


「っ!? 近づかないでください! 貴方を見ると、数値が悪化します!」


 スカーレットが叫ぶ。


「特定しました。アレルゲン(原因物質)は、目の前のこの男です! 貴方、新種のフェロモンでも出しているのですか!?」

「病気扱いするな」


 レオンハルトは、後ずさるスカーレットの手を取り、強引に引き寄せた。

 そして、その掌を自分の左胸――心臓の上に押し当てた。


「病気だと言うなら、俺も重症だ。診てくれ」


          ◇


 ドクン、ドクン、ドクン。


 軍服越しに伝わってくる、力強く、そして激しい鼓動。

 それは、スカーレット自身の心臓が刻んでいるリズムと、驚くほど同じ速さだった。


「……同期シンクロしている?」


 スカーレットは目を見開く。

 二人の心拍数が、まるで共鳴するように重なり合っている。


「ああ。君を見ると、俺の心臓もうるさくてかなわない」


 レオンハルトは、彼女の手を握りしめたまま、少し照れくさそうに笑った。


「君が危険な目に遭えば止まりそうになるし、君が笑えば加速する。……これは病気か? それとも、別の名前があるのか?」


 別の名前。

 スカーレットは、その答えを知っている。

 知っていたが、認めるのが怖くて、ずっと「化学反応」というラベルを貼って誤魔化してきた言葉。


 彼女は、彼の手の温かさを感じながら、ゆっくりと眼鏡を外した。

 レンズというフィルターを通さない、素の瞳で彼を見上げる。

 そこには、ただ一人の男として、彼女を愛おしむレオンハルトの顔があった。


(ドーパミンによる多幸感。オキシトシンによる愛着形成。ノルアドレナリンによる興奮)

(これら全ての生理反応を統合し、矛盾なく説明できる診断名は……一つしかない)


 科学的な敗北宣言。

 スカーレットは、小さく息を吐いた。


「……医学的見地から診断します」


 彼女の声は、夜風に溶けるほど優しかった。


「私は殿下に『恋』をしているようです」

「……ほう」

「極めて非合理的で、制御不能で……どうしようもなく、愛おしいエラーです」


 認めた瞬間、胸のつかえが取れたような気がした。

 ああ、これが恋か。

 顕微鏡では見えない、数値化もできない。けれど、確かにここにある「熱」。


 レオンハルトは、安堵と歓喜が混ざったような顔で微笑んだ。


「ようやく認めたか、この頑固な科学者め」

事実ファクトには逆らえませんので」

「では、契約書にサインを。……いや、その前に」


 彼は顔を近づけた。

 唇と唇が触れそうな距離。


「……捺印ハンコが必要だな」


 スカーレットは、逃げなかった。

 それどころか、背伸びをして、レオンハルトの首に腕を回した。


「インクは不要です。……もっと確実な『捺印』の方法がありますから」


 二人の唇が重なる。

 触れた瞬間、スカーレットの脳内から「分析」や「思考」が消え失せた。

 あるのは、柔らかい感触と、熱と、溶けるような甘さだけ。

 星空の下、論理も理屈も溶けてなくなる、長い口づけ。


          ◇


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 唇が離れた時、二人の顔は真っ赤だった。

 スカーレットは、ぼんやりとした頭で口元を拭った。


「(味覚データ更新……。高級チョコレートよりも甘く、そして中毒性があります)」


 無意識に呟いた言葉に、レオンハルトが吹き出す。


「……くくっ。キスした直後に味の感想か?」

「職業病です。……ですが、サンプル数(N数)が1では、データの信頼性に欠けますね」


 スカーレットは、悪戯っぽく彼を見上げた。


「念のため、再検査リテイクを要求します」

「……やれやれ。科学者というのは強欲だな」


 レオンハルトは嬉しそうに目を細め、再び彼女を引き寄せた。


「いいだろう。納得いくまで、何度でも付き合ってやる」


 二人のシルエットが、再び一つに重なる。

 王宮のテラスに、甘い沈黙が降りてくる。

 科学捜査局長と第二王子。

 最強のバディが、最強の夫婦になった夜。

 その「証拠」は、夜空の星々だけが知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ