第72話:心拍数とドーパミンの答え
星見のテラスに、夜風が吹き抜ける。
レオンハルトの腕の中で、スカーレットは硬直していた。
抱きしめられることには慣れたつもりだった。病室でも、彼に抱きしめられ、その体温に触れた。
だが、今夜は違う。
左手の薬指にはまった「印鑑指輪」の重みが、この接触の意味を決定的に変えている。
――契約成立。
――生涯のパートナー。
その事実が脳にインプットされた瞬間、彼女の身体に異変が生じた。
(体温、急上昇。発汗。思考回路に深刻なノイズ発生)
顔が熱い。指先が痺れる。呼吸が浅くなり、視界がチカチカする。
まるで、高濃度の神経毒を浴びた時の初期症状に似ている。
「……スカーレット?」
レオンハルトが心配そうに顔を覗き込んでくる。
その至近距離の顔を見た瞬間、スカーレットの心臓が爆発的に跳ねた。
ドクンッ!!
「っ……!?」
彼女は反射的に彼の胸を押し、一歩後ずさった。
そして、自分の左手首(橈骨動脈)に右手の指を当て、秒数をカウントし始める。
「……おい。プロポーズの返事をするって時に、脈を測る女がいるか?」
レオンハルトが呆れ顔で突っ込む。
だが、スカーレットは真剣そのものだった。
「静かに。バイタルチェック中です」
彼女は早口で数値を読み上げる。
「心拍数、安静時にも関わらず一二〇bpm突破。血圧上昇。瞳孔散大。アドレナリンおよびドーパミンの過剰分泌を確認」
「……だから?」
「殿下。これは病気です。甲状腺機能亢進症か、あるいは未知の神経毒に侵されています。直ちに精密検査を……」
彼女は本気で混乱していた。
これまで、彼女は自分の感情を常に「脳内物質の化学反応」として客観的に処理してきた。
だが、今の反応は、彼女の制御を遥かに超えている。
未知のエラー。システム障害。
「……はぁ」
レオンハルトは深くため息をつき、苦笑した。
そして、一歩近づく。
「っ!? 近づかないでください! 貴方を見ると、数値が悪化します!」
スカーレットが叫ぶ。
「特定しました。アレルゲン(原因物質)は、目の前のこの男です! 貴方、新種のフェロモンでも出しているのですか!?」
「病気扱いするな」
レオンハルトは、後ずさるスカーレットの手を取り、強引に引き寄せた。
そして、その掌を自分の左胸――心臓の上に押し当てた。
「病気だと言うなら、俺も重症だ。診てくれ」
◇
ドクン、ドクン、ドクン。
軍服越しに伝わってくる、力強く、そして激しい鼓動。
それは、スカーレット自身の心臓が刻んでいるリズムと、驚くほど同じ速さだった。
「……同期している?」
スカーレットは目を見開く。
二人の心拍数が、まるで共鳴するように重なり合っている。
「ああ。君を見ると、俺の心臓もうるさくてかなわない」
レオンハルトは、彼女の手を握りしめたまま、少し照れくさそうに笑った。
「君が危険な目に遭えば止まりそうになるし、君が笑えば加速する。……これは病気か? それとも、別の名前があるのか?」
別の名前。
スカーレットは、その答えを知っている。
知っていたが、認めるのが怖くて、ずっと「化学反応」というラベルを貼って誤魔化してきた言葉。
彼女は、彼の手の温かさを感じながら、ゆっくりと眼鏡を外した。
レンズというフィルターを通さない、素の瞳で彼を見上げる。
そこには、ただ一人の男として、彼女を愛おしむレオンハルトの顔があった。
(ドーパミンによる多幸感。オキシトシンによる愛着形成。ノルアドレナリンによる興奮)
(これら全ての生理反応を統合し、矛盾なく説明できる診断名は……一つしかない)
科学的な敗北宣言。
スカーレットは、小さく息を吐いた。
「……医学的見地から診断します」
彼女の声は、夜風に溶けるほど優しかった。
「私は殿下に『恋』をしているようです」
「……ほう」
「極めて非合理的で、制御不能で……どうしようもなく、愛おしいエラーです」
認めた瞬間、胸のつかえが取れたような気がした。
ああ、これが恋か。
顕微鏡では見えない、数値化もできない。けれど、確かにここにある「熱」。
レオンハルトは、安堵と歓喜が混ざったような顔で微笑んだ。
「ようやく認めたか、この頑固な科学者め」
「事実には逆らえませんので」
「では、契約書にサインを。……いや、その前に」
彼は顔を近づけた。
唇と唇が触れそうな距離。
「……捺印が必要だな」
スカーレットは、逃げなかった。
それどころか、背伸びをして、レオンハルトの首に腕を回した。
「インクは不要です。……もっと確実な『捺印』の方法がありますから」
二人の唇が重なる。
触れた瞬間、スカーレットの脳内から「分析」や「思考」が消え失せた。
あるのは、柔らかい感触と、熱と、溶けるような甘さだけ。
星空の下、論理も理屈も溶けてなくなる、長い口づけ。
◇
どれくらいの時間が経っただろうか。
唇が離れた時、二人の顔は真っ赤だった。
スカーレットは、ぼんやりとした頭で口元を拭った。
「(味覚データ更新……。高級チョコレートよりも甘く、そして中毒性があります)」
無意識に呟いた言葉に、レオンハルトが吹き出す。
「……くくっ。キスした直後に味の感想か?」
「職業病です。……ですが、サンプル数(N数)が1では、データの信頼性に欠けますね」
スカーレットは、悪戯っぽく彼を見上げた。
「念のため、再検査を要求します」
「……やれやれ。科学者というのは強欲だな」
レオンハルトは嬉しそうに目を細め、再び彼女を引き寄せた。
「いいだろう。納得いくまで、何度でも付き合ってやる」
二人のシルエットが、再び一つに重なる。
王宮のテラスに、甘い沈黙が降りてくる。
科学捜査局長と第二王子。
最強のバディが、最強の夫婦になった夜。
その「証拠」は、夜空の星々だけが知っていた。




