第71話:論理的なプロポーズ
王宮の最上層に位置する「星見のテラス」。
そこは、王都の夜景を一望できる絶景ポイントであり、歴代の王族が求婚の場として選んできた、由緒正しきロマンチックスポットである。
頭上には満天の星。眼下には宝石箱をひっくり返したような街の灯り。
だが、今宵その場所に現れたスカーレット・ヴァレンタインにとって、そこは単なる「照度不足の危険地帯」でしかなかった。
「……暗いですね」
彼女は手すりに身を乗り出し、不満げに呟いた。
「足元灯の光量が足りていません。これでは転倒リスクがありますし、何よりこの暗さでは表情筋の微細な動き(マイクロ・エクスプレッション)が読み取れません」
スカーレットは懐から、円筒形の魔道具を取り出した。
テオに作らせた、高出力の「魔石懐中電灯」だ。
「殿下、どこにいらっしゃいますか? ここで密会ですか? それとも闇取引の現場検証?」
彼女はスイッチを入れ、強力な光のビームをテラスの闇に向けて照射した。
ビッ、ビッと光が走り、ムードもへったくれもない。
「必要なら、照明弾を焚きましょうか? 半径一キロを真昼のように明るくできますが」
「やめろ。雰囲気が台無しだ」
呆れた声と共に、柱の陰から人影が現れた。
第二王子レオンハルト。
今夜の彼は、いつものラフな戦闘服でも執務服でもなく、第一礼装である純白の軍服に身を包んでいた。胸には勲章が輝き、整えられたプラチナブロンドの髪が月光を弾いている。
その美貌は、童話の王子様そのものだった。
「……眩しいですね」
スカーレットは懐中電灯を消し、目をしばたたいた。
「どうされたのですか、その格好は。明日は式典の予定などなかったはずですが」
「……これから行うのは、式典よりも重要な儀式だからな」
レオンハルトは咳払いをした。
その表情は硬い。かつて数千の敵に囲まれた時よりも、あるいは透明な殺人鬼と対峙した時よりも、明らかに緊張している。
彼の手には、花束の代わりに、一冊の**「黒革のファイル」**が握られていた。
「スカーレット。科学捜査局の運営も軌道に乗った。予算も人材も確保できた」
「ええ。おかげさまで」
「そこでだ。……俺から、新たな『長期共同プロジェクト』を提案したい」
彼は一歩近づき、ファイルを差し出した。
「まずは、この仕様書を読んでくれ。……精査して、不備があれば指摘してほしい」
◇
(また予算申請の差し戻しか、あるいは騎士団との管轄争いかしら……)
スカーレットは仕事モードの頭でファイルを受け取り、開いた。
一枚目の羊皮紙。
そこに記されていた表題を見て、彼女の思考が一瞬停止した。
『生涯パートナーシップ、および遺伝子情報の排他的共有に関する協定書』
「……はい?」
難解な表現だが、スカーレットの言語野が高速で翻訳を行う。
生涯のパートナー。遺伝子の共有。排他的(独占的)な権利。
つまり、これは。
「……要約すると、『婚姻届』ですね?」
「まあ、一般的にはそう呼ぶな」
レオンハルトがそっぽを向いて答える。耳が赤い。
スカーレットは動揺を理性で抑え込み、職業病とも言える速度で契約条項に目を通し始めた。
【第1条】
甲は乙に対し、研究環境の永続的な維持、およびその活動に対する法的・政治的な保護を保証する。
【第2条】
甲は乙に対し、王都最高級の糖分を無制限に供給する義務を負う。なお、乙が希望する銘柄を優先する。
【第3条】
乙が実験過程において、王宮の一部を損壊、ないし爆破した場合、甲は全力でこれを隠蔽・揉み消すものとする。
【第4条】
乙は甲に対し、その卓越した頭脳と観察眼を、生涯にわたり優先的に提供する。
スカーレットはページをめくる手を止めた。
完璧だ。
彼女が人生で求めていたもの――自由な研究、潤沢な資金、そして美味しいお菓子――が、全て保証されている。
だが、科学者としての彼女の脳が、ある「矛盾」を検知した。
「殿下」
スカーレットは顔を上げ、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「この契約書には不備があります」
「……どこだ?」
「バランスです。私(乙)へのメリットが過剰すぎます。対して、貴方(甲)が得るメリットが記述されていません」
彼女は冷静に指摘する。
「私の実家は公爵家ですが、政略結婚としての価値なら、隣国の王女や大貴族の令嬢の方が上でしょう。それに、私は『変人』として社交界での評判も最悪です」
「……」
「この条件では、貴方にとって『不平等条約』です。貴方は私から何を搾取するつもりですか? 過労死レベルの労働力? それとも公爵家の票?」
等価交換の原則に反する。
裏があるはずだ。スカーレットは身構えた。
レオンハルトは、ふっと息を吐き出した。
そして、手すりに背を預け、苦笑する。
「……搾取ではない。俺の『感情』が、君を必要としているんだ」
「感情?」
「ああ。君といると退屈しない。死体を見ても、ドブ川を歩いても、君の解説つきなら世界の秘密を暴いている気分になれる」
彼はテラスの手すりから体を離し、スカーレットの正面に立った。
そのアイスブルーの瞳が、彼女を真っ直ぐに射抜く。
「俺は、国のために結婚する気はない。……俺の隣には、世界で一番賢く、誰よりも真実に誠実な女性にいてほしい」
それは、どんな甘い言葉よりも、スカーレットの心に深く突き刺さる殺し文句だった。
賢さへの敬意。真実への共感。
彼女が最も大切にしてきた価値観を、彼は丸ごと肯定したのだ。
「これは政治判断ではない。俺の脳が、心臓が、『君でなければエラーが出る』と叫んでいるんだ」
◇
「エ、エラー……」
スカーレットは言葉に詰まった。
どんな難事件も即座に解いてきた彼女の自慢の頭脳が、完全にフリーズ(処理落ち)していた。
顔が熱い。指先が震える。
これは……バグだ。論理では説明できない、システム障害だ。
「それは……深刻ですね。早急なデバッグが必要です」
「ああ。だから、この契約が必要なんだ」
レオンハルトは、上着のポケットから小さな箱を取り出した。
パカッ、と蓋が開く。
中に収められていたのは、よくあるダイヤモンドの婚約指輪ではなかった。
重厚な黄金の台座に、王家の紋章と、複雑な魔術式が刻まれた印章。
「シグネットリング(印鑑指輪)」だ。
「これは……」
「俺の個人印だ。これを押せば、王族としての権限を行使できる」
彼はその指輪を摘み上げ、スカーレットの左手を取り、薬指に嵌めた。
ずしりとした重み。
それは、「愛」という抽象的なものではなく、「権力」と「責任」と「信頼」という、物理的な質量を持った重みだった。
「この契約書に、承認印をくれ」
レオンハルトは、彼女の手を握りしめたまま、少し照れくさそうに笑った。
「一生、俺の『共犯者』になってくれないか」
共犯者。
その言葉は、二人にとって「愛している」よりも遥かに甘く、そして重い響きを持っていた。
地下室で死体を解剖し、悪臭ガスを作り、権力者に喧嘩を売った日々。
その全てを共有し、これからも背負っていくという誓い。
スカーレットは、自分の指に嵌まった無骨な指輪を見つめた。
涙は出ない。代わりに、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
彼女は、いつものように冷静で居ようとしても――手が震えて、うまくできなかった。
スカーレットが契約書を受け取ると、レオンハルトは安堵のため息をつき、彼女を強く抱きしめた。
星空の下、二人の影が一つに重なる。
論理的で、不器用で、世界一ロマンチックな契約が、ここに成立した。




