第69話:事件の収束と、少年の救済
大聖堂での「悪臭作戦」から数日が過ぎた。
王宮の窓を開け放てば、初夏の爽やかな風が吹き抜けていく。あの悪夢のようなフェロモンの甘さも、地獄のような腐敗臭も、強力な換気魔法と清掃によって完全に拭い去られていた。
王宮の特別会議室。
重厚な円卓を囲んでいるのは、この国の頂点に立つ者たちだ。
病床から完全に復帰した国王アルフレッド。その第二王子であるレオンハルト。そして、今回の一連の騒動を鎮圧した立役者、スカーレット・ヴァレンタイン。
「……すまなかった、レオンハルト」
国王が、深々と頭を下げた。
一国の王が王子に対して頭を下げるなど、あってはならないことだ。だが、彼の顔には深い悔恨が刻まれていた。
「私は『夢』を見ていたようだ。実の子を処刑しようとし、どこの馬の骨とも知れぬ者を我が子と信じ込み……あまつさえ、国を売ろうとした。王失格だ」
「顔を上げてください、父上」
レオンハルトは静かに首を横に振った。
「あれは不可抗力です。薬物による強制的な精神汚染……人間である以上、防ぎようがなかった。謝罪が必要なら、あの女を城に入れた警備体制の不備に対してでしょう」
「……そう言ってもらえると救われる」
国王は顔を上げ、凛とした表情に戻る。
「では、戦後処理を始めよう。まずは、国を揺るがした大罪人、ミエル・キャンディの処遇についてだ」
◇
同席していた法務大臣――スカーレットの父、ヴィクター公爵が進み出た。
「国家反逆罪、王族詐称、および大規模テロ未遂。……法に照らせば、極刑以外にあり得ません。即刻、市中引き回しの上、公開処刑とすべきかと」
誰もが頷く妥当な判断だ。
だが、その場に響いたのは「異議あり」という凛とした声だった。
「お待ちください、お父様。そして陛下」
スカーレットが挙手をした。
「彼女を処刑するのは、国家的損失です」
「……損失だと? あのような毒婦を生かしておくほうがリスクだぞ」
「いいえ。彼女の体内で生成される『フェロモン』は、既存の魔法生物学の常識を覆す特異体質です。魔力を使わず、種族を超えて脳に干渉する物質……。これを解明できれば、精神疾患の治療薬や、新たな鎮静剤の開発に繋がります」
スカーレットの眼鏡がキラリと光る。
彼女の目には、ミエルへの憎しみなど微塵もない。あるのは、珍しいモルモットを見るような、冷徹な好奇心だけだ。
「殺して灰にするには惜しい素材です。よって、減刑を提案します」
彼女は用意していた書類を提出した。
「彼女を、第零班の管轄下に新設する『特別隔離病棟』へ収容し、終身の研究対象とすることを提案します」
「研究対象……?」
「はい。一生、白い部屋から出ることはありません。誰とも会話せず、名前も剥奪し、ただデータとして管理される存在。……これより彼女は、人間ではなく『検体M』として扱われます」
その提案の意味を理解し、会議室の空気が凍りついた。
死刑よりも残酷な、永遠の飼い殺し。
自己顕示欲の塊であるミエルにとって、「誰からも愛されず、憎まれもしない、ただのモノとして扱われる」ことは、死以上の地獄だ。
「……許可する」
国王が重々しく頷いた。
「死んで楽になることなど許さん。その身を以て、生涯、国に償わせよ」
◇
時を同じくして。王宮の地下牢、最深部にある独房。
防音ガラスの向こうで、拘束されたミエルが絶叫していた。
「嫌ぁぁぁぁッ! 出して!」
きっとそう言っているのだろう
気管切開された喉で、ヒューヒューと息をしながら、彼女は壁を叩く。
彼女の顔の下半分には、まだ剥がれない白いウレタンがこびりついている。
「殺して! いっそ殺しなさいよ! 実験動物なんて……誰にも見てもらえないなんて、耐えられない!」
「誰か! 誰か私を見て! 愛してぇぇぇ!」
だが、その声は誰にも届かない。
監視員たちは耳栓をし、彼女を「検体」として淡々と記録するだけだ。
愛を渇望し、愛を武器にした女は、永遠に愛の届かない孤独な箱の中で、狂い続けることになる。
◇
場面は変わり、王宮の客室。
ふかふかのベッドの上で、カイ少年は小さくなっていた。
整形された顔の包帯は取れ、あどけない素顔が見えている。だが、その瞳は怯えに満ちていた。
「……僕も、処刑されるの?」
彼は、自分がしたことの重さを理解していた。
偽物の王子を演じ、国を騙した。たとえ脅されていたとしても、それは大罪だ。
スカーレットはベッドの脇に椅子を引き寄せ、静かに座った。
手には、あの「DNA鑑定書」がある。
「カイ君。この図を覚えていますか?」
「……うん。僕が、偽物だって証明した紙」
カイは俯く。
「ごめんなさい。僕は、王様の子じゃない……」
「ええ、そうです。貴方と王家の血は、一ミリも繋がっていません」
スカーレットは断言する。あまりに容赦のない言葉に、カイの肩が震える。
だが、彼女は続けた。
「ですが、それは『貴方が無価値だ』という意味ではありません」
彼女は、もう一枚の資料――隣国の民族データと照合した結果を広げた。
「見てください。貴方の遺伝子マーカーは、ドラコニア北部の山岳民族の特徴と一致しました。……貴方には、ちゃんとお父さんとお母さんがいて、その血を受け継いでいるのです」
スカーレットは、鑑定書をカイの手に握らせた。
「ミエルが魔法で貴方の顔を変えようとも、薬で記憶を弄ろうとも……貴方の細胞一つ一つは、ずっと『本当の貴方』を叫んでいました」
「……」
「これは、貴方が偽物の王子ではないという証明書ではありません。『貴方は、貴方以外の誰でもない』という、アイデンティティの証明書です」
カイが顔を上げる。
スカーレットの瞳は、優しかった。
「胸を張りなさい。貴方は誰の代用品でもない、本物のカイ君なのですから」
少年の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
恐怖の涙ではない。自分が自分であっていいのだと許された、安堵の涙だ。
「……う、うわぁぁぁん!」
泣きじゃくる少年に、スカーレットは懐から銀紙に包まれたものを差し出した。
最高級のチョコレートだ。
「泣きたい時は、糖分を摂りなさい。セロトニンが分泌されて、心が落ち着きます」
「……ぐすっ」
カイはチョコを受け取り、小さな口で齧った。
甘さが広がり、強張っていた心が解けていく。
「……甘い」
「でしょう? 王宮の菓子職人は優秀ですから」
部屋の入り口で様子を見ていたレオンハルトが、優しく声をかけた。
「カイ。隣国にいる実の母親が見つかった。……国境までは私が送り届けよう」
「え……? お母さんに、会えるの?」
「ああ。もう二度と、政治や争いには関わるな。……普通の子供として、幸せになれ」
それは、王子からの最大限の慈悲であり、約束だった。




