第68話:魔法が解けた聖女の末路
大聖堂は、罵声と悪臭の坩堝と化していた。
かつて「聖女」を崇めていた貴族たちは、今や騙された怒りと生理的な不快感によって鬼の形相となり、祭壇上のミエルを睨みつけている。
追い詰められたミエル・キャンディは、乱れた髪を振り乱し、狂ったように叫んだ。
「黙りなさいよ! どいつもこいつも、私を崇めていればよかったのよ!」
彼女の形相は、もはや女神の慈悲など欠片もない、ヒステリックな悪鬼のものだった。
「私は選ばれたの! 神が私に『愛される力』をくれたのよ! 私が主役で、貴方たちは愛するだけの脇役でしょう!? なぜシナリオ通りに動かないのよ!」
彼女は懐から、一つの小瓶を取り出した。
漆黒のガラス瓶。厳重に封印されたその中には、ドロリとした濃いピンク色の液体が揺らめいている。
「……いいわ。貴方たちが私を愛さないなら、無理やりにでも跪かせてやる」
彼女の目が血走る。
スカーレットは、ガスマスクのレンズ越しにその液体を解析し、戦慄した。
(あれは『フェロモン原液』の濃縮体。希釈前の純度一〇〇パーセント)
(あの量なら、この大空間でも致死濃度になる。吸い込めば脳の神経回路が焼き切れ、全員が精神崩壊(廃人化)を起こすわ!)
それは、国連れ心中を狙った自爆テロの構えだった。
「全員、私の奴隷になって死になさい!」
ミエルが瓶の蓋に手をかける。
「――させるかッ!!」
誰よりも早く反応したのは、レオンハルトだった。
彼はガスマスク越しの呼吸音を荒らげ、神速の踏み込みで祭壇を駆け上がった。
銀色の剣閃が走る。
狙うはミエルの腕。瓶ごと切り落とし、発動を阻止する構えだ。
だが。
「止まって、殿下! 斬ってはダメです!」
スカーレットの鋭い叫びが、レオンハルトの足を止めた。
彼の剣先が、ミエルの手首の寸前でピタリと停止する。
「なッ!? なぜだスカーレット! 使わせるわけには……!」
「瓶が割れれば終わりです! それに、彼女の体液自体が高濃度の毒になっている可能性がある!」
スカーレットは叫んだ。
「斬れば飛沫が飛び散ります。それを浴びれば、ガスマスクの吸収限界を超えて、貴方が感染します!」
ミエルは全身が「フェロモン生成器官」と化している特異体質だ。彼女の血しぶき一つが、最強の洗脳薬となりうる。
物理攻撃はリスクが高すぎる。
「あはは! そうよ、私に触れればタダじゃ済まないわ! さあ、愛に溺れて死ねぇぇぇ!」
レオンハルトがたじろいだ隙に、ミエルが瓶を床に叩きつけようと腕を振りかぶる。
万事休すかと思われた。
しかし、スカーレットは冷静だった。
彼女は一歩前に踏み出し、腰のホルスターから「ある物」を抜き放った。
それは魔法の杖でも、短剣でもない。
赤い円筒形の缶――建築現場で使われるような、無骨なスプレー缶だった。
「彼女の魔法の発動条件は『呼吸』と『拡散』。……ならば、物理的に塞ぐのが最適解です」
スカーレットは、缶のノズルをミエルの顔面に向けた。
「テオ君が開発した、建築補修用の『速乾性・発泡ウレタンフォーム(強力接着剤)』です」
「は……?」
ミエルが間抜けな顔を晒した瞬間。
スカーレットは迷わずトリガーを引いた。
プシューーーーーッ!!
勢いよく噴射されたのは、もこもこと膨張する白い泡だった。
それが、ミエルの顔面――特に鼻と口を直撃した。
「ん、んぐっ!?」
ミエルの悲鳴が、泡の中に消える。
液体から固体へ。
空気に触れたウレタンフォームは、爆発的に体積を増やしながら、瞬時に硬質化を開始した。
ゴムのような弾力と、コンクリートのような粘着力を持つ泡が、彼女の呼吸器を完全に物理封鎖する。
「んーーーッ! んーッ!!」
ミエルは目を見開き、両手で顔をかきむしった。
だが、取れない。強力な接着剤は皮膚に食い込み、剥がそうとすれば顔の皮ごと剥がれる強度で固着している。
カラン、コロン……。
彼女の手から力が抜け、黒い小瓶が落ちた。
割れる――その寸前。
「っと、危ない!」
レオンハルトが地面スレスレでスライディングし、見事に小瓶をキャッチした。
彼は冷や汗を拭いながら立ち上がる。
「……ナイスキャッチです、殿下」
「心臓に悪いわ! ……で、あいつはどうなった?」
二人が視線を向けると、そこには無様な光景があった。
ミエルは床に倒れ込み、白目を剥いてのたうち回っていた。
呼吸ができない。鼻も口も、白い塊で塞がれているのだから当然だ。
「聖女」としての威厳も、「ラスボス」としての恐怖も、そこにはない。ただ、酸欠に苦しむ一匹の生物がいるだけ。
貴族たちが、恐怖から軽蔑へと変わった冷ややかな視線を向ける。
「……なんて様だ」
「泡を吹いて倒れるとは、このことか」
スカーレットは、倒れたミエルを見下ろして冷徹に告げた。
「鼻が詰まれば、貴女はただの人です。……いいえ、今の貴女は『泡を吹いたピエロ』ですね」
ミエルの動きが鈍くなる。チアノーゼが出て、失神寸前だ。
このまま放置すれば、数分で窒息死するだろう。
「……殺すのか?」
レオンハルトが問う。
彼女の罪――国家転覆と児童虐待を考えれば、ここで死んでも誰も文句は言わない。
だが、スカーレットは首を横に振った。
「いいえ。殺してはなりません」
それは慈悲ではなかった。
彼女の瞳には、科学者特有の、冷たく光る狂気が宿っていた。
「彼女は、体内で未知の化学物質を合成できる特異体質者です。……貴重な『生きたサンプル(検体)』です。ここで死なせて灰にするなど、資源の無駄遣い(もったいない)にも程があります」
スカーレットは、控えていたレイブンに指示を出した。
「レイブン、確保を。……そして、気道確保の処置を」
「承知しました」
元暗殺者の手際は鮮やかだった。
レイブンはミエルを後ろ手に縛り上げると、口元を覆う硬化したウレタンの一部に、ナイフで慎重に穴を開けた。
そして、そこに太いストロー状の管をねじ込む。
シュゥゥゥ……。
管から空気が吸い込まれる音がした。
ミエルの胸が大きく上下し、辛うじて呼吸が再開される。
だが、その姿はあまりに惨めだった。顔の下半分を醜い泡の塊に覆われ、ストローで空気を乞うだけの存在。
もはや言葉を発することも、フェロモンを撒くこともできない。
「……ひゅー、ひゅー……」
意識を取り戻したミエルが、涙目でスカーレットを睨む。
殺して。そう訴えているようだった。
プライドの高い彼女にとって、この無様な姿で生かされることは、死刑よりも遥かに屈辱的な罰だったからだ。
「死ぬことは許可しません」
スカーレットは、ミエルの耳元で囁いた。
「一生、隔離病棟の中で、私の研究に貢献していただきます。……貴女のその『愛の力』のメカニズム、細胞レベルで解明して差し上げますから」
ミエルの目が絶望で見開かれ、そして光を失った。
完全なる敗北。
聖女の魔法は解け、悪夢の夜は終わった。
「……作戦完了です」
スカーレットは立ち上がり、汚れたドレスの埃を払った。
そして、レオンハルトに向き直る。
「私たちの勝ちです、殿下」
レオンハルトはガスマスクを外し、大きく息を吐き出した。
割れた天井のドームから、一筋の朝日が差し込んでくる。
その光は、偽りの聖女ではなく、薄汚れた白衣の科学者と、傷だらけの王子を祝福するように照らしていた。
「……ああ。勝ったな」
レオンハルトが力強く頷く。
悪臭はまだ残っている。だが、その空気は、今まで吸ったどの空気よりも美味しく、清々しかった。




