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第66話:オペレーション・スティンク(悪臭作戦)

 大聖堂の祭壇前。

 数百の近衛騎士たちが、抜身の剣を掲げて殺到してくる。

 彼らの瞳は洗脳によって濁り、口元には恍惚とした笑みが張り付いている。愛する聖女を守るためなら、死ぬことさえ厭わない狂信者の群れ。


 死の波が迫る中、スカーレットは一切動じることなく、手に持ったガラスのアンプルを高く掲げた。

 中に入っているのは、鮮やかな黄色い液体。

 テオが命がけで封入した、特製嗅覚破壊ガスだ。


「総員、投擲スローッ!!」


 レオンハルトの号令が飛ぶ。

 ガスマスクを装着した四人――レオンハルト、スカーレット、テオ、レイブンが、一斉に腕を振り抜いた。

 狙うは騎士たちの足元、そして会場の四隅にある空調の吸気口付近。


 ヒュンッ、ヒュンッ……。


 ガラス球が放物線を描き、石畳の床に激突する。


 パリーンッ!


 乾いた破砕音。

 薄いガラスが砕け散り、封じ込められていた黄色い液体が床にぶちまけられた。

 液体は空気に触れた瞬間、爆発的な勢いで気化し、目に見えない死神となって拡散した。


          ◇


 一瞬の静寂。

 先頭を走っていた騎士が、不思議そうに足を止めた。

 何か、黄色い霧のようなものが足元から立ち上っている。


「……なんだ、これ?」


 彼は無意識に息を吸い込んだ。

 そして――世界が反転した。


「――お、ぶっ……!?」


 言葉にならなかった。

 騎士は白目を剥き、剣を取り落とすと、その場に膝から崩れ落ちた。

 胃の中身が逆流する。生理的な拒絶反応が、全身の筋肉を痙攣させる。


「オエェェェェェェッ!?」


 それは、連鎖的な悲鳴だった。

 一人倒れ、二人倒れ、瞬く間に前線の騎士たちが総崩れになる。

 会場の後方にいた貴族たちも無事ではなかった。拡散したガスは、慈悲なく大聖堂の隅々まで行き渡る。


「く、臭いッ!? な、なんだこれはぁぁ!」

「目が! 鼻が腐るぅぅッ!」

「助けて! 息が、息ができな……おぇぇっ!」


 地獄の釜の蓋が開いた。

 そこに充満したのは、この世の終わりを告げる悪臭だった。

 腐った玉ねぎ、真夏の生ゴミ、都市ガスの原液、そしてスカンクの分泌液。それらを煮詰めて濃縮し、さらに「靴下の蒸れた臭い(酪酸)」を隠し味に加えた、化学の暴力。


 美麗なドレスを着た令嬢が、白目を剥いて床を転げ回る。

 威厳ある大臣が、涙と鼻水を垂れ流して這いつくばる。

 聖歌が響いていた空間は、いまや断末魔のような嗚咽と咳き込みが支配する阿鼻叫喚の巷と化していた。


 その光景を、スカーレットはガスマスクのレンズ越しに冷徹に観察していた。


(効果確認。メルカプタン類の刺激臭が、大脳辺縁系を直撃していますね)


 彼女は拡声魔法を使い、パニックに陥る会場に向けて解説を始めた。


「皆様、落ち着いて……いえ、落ち着かなくて結構です。まずはその臭いをたっぷりと吸い込んでください」

「あ、悪魔めぇぇ! 毒ガスかぁ!」

「いいえ。人体に有害な成分はありません。ただ『強烈に臭い』だけです」


 スカーレットは、のたうち回る人々を見下ろして続けた。


「人間の脳は、『快楽』よりも『生命の危機アラート』を最優先で処理するようにプログラムされています」

「腐敗臭や硫黄臭は、生物にとって『食べたら死ぬ』『近づくな』という本能的な警告信号です」


 ミエルのフェロモンは、脳に「好き」「愛しい」という快楽信号を送り続け、思考を麻痺させていた。

 だが、この悪臭は違う。

 脳の奥底にある生存本能を、ハンマーで殴るように刺激する。


「貴方たちが浸っていた『甘い陶酔』は、この『生存本能』によって強制的に上書き(オーバーライド)されました」


 スカーレットの言葉通り、変化は劇的だった。

 床に伏していた騎士の一人が、涙目で顔を上げる。

 その瞳から、先ほどまでの虚ろな「愛の色」が消えていた。


「……ッ、はっ? 俺は、何を……?」

「ここはどこだ? なんでこんなに臭いんだ!?」


 次々と正気を取り戻す人々。

 彼らの脳内では、「ミエル様のために死にたい」という思考が、「ここから逃げたい」「新鮮な空気が吸いたい」という切実な願いに置き換わっていた。

 洗脳チャームの強制解除。

 物理的なショック療法が、見事に成功した瞬間だった。


          ◇


「げほっ、ごほっ! な、なによこれぇ!?」


 祭壇の上で、ミエルが悲鳴を上げた。

 彼女はガスマスクを持っていない。直撃こそ避けたものの、上昇してきたガスを吸い込み、激しくむせ返っている。


「臭い! 信じられない! 私の……私の神聖な戴冠式が!」


 彼女は鼻と口を袖で覆い、涙目で叫んだ。


「結界! 誰か結界を張りなさい! 風魔法でこの臭いを追い出して!」


 だが、誰も動かない。

 宮廷魔導師たちも、床で伸びているからだ。それに、正気に戻った彼らは、もはやミエルの命令を盲目的に聞く人形ではない。


「どうして……どうして誰も動かないのよ!」


 ミエルは焦った。

 彼女の武器は「香り」だ。だが、その繊細なフェロモンの香りは、圧倒的な悪臭の前に完全にかき消されている。

 香水と下水の殴り合い。勝敗は火を見るより明らかだった。


 スカーレットは、ゆっくりと祭壇の階段を登った。

 ガスマスクの異形が、聖女に迫る。


「無駄です、ミエル様」


 スカーレットの声が響く。


「この臭気成分は空気より重く、粘着性が極めて高い。一度付着すれば、換気しても数日は取れません」

「ひっ、来ないで! 汚らわしい!」

「貴女のその美しいドレスにも、自慢の髪にも、たっぷりと染み込んでいますよ」


 スカーレットは、後ずさるミエルを追い詰める。


「もう誰も、貴女の『甘い香り』など感じ取れません。鼻が馬鹿になっていますからね」

「そ、そんな……」

「今の貴女は『花の聖女』ではありません。ただの『悪臭公害の発生源』です」


 ミエルの顔が屈辱で歪む。

 「良い匂いのする可憐な少女」というブランディングを完璧に行ってきた彼女にとって、悪臭まみれになることは死以上の尊厳破壊だった。


          ◇


 一方、壇下ではレオンハルトが動いていた。

 彼は、咳き込みながら膝をついている近衛騎士団長――自身の剣の師匠の元へ歩み寄る。


「……目が覚めたか、師匠」


 レオンハルトが背中を叩くと、団長はハッと顔を上げた。


「で、殿下……? 私は一体……」


 団長は周囲を見回し、自分が剣を抜いていることに気づいて青ざめる。


「まさか、殿下に刃を? ああ、なんということを……!」

「気にするな。薬を盛られていただけだ」


 レオンハルトは優しく、しかし力強く告げた。


「罪滅ぼしがしたいなら、剣を収めろ。そして、この混乱を鎮めるんだ」

「は、はいッ! 直ちに!」


 指揮官が正気に戻ったことで、騎士団の秩序が回復していく。

 レオンハルトは頷き、壇上へと駆け上がった。

 彼はミエルと、その横で怯えている少年カイの間に割って入り、二人を分断した。


「カイ。こっちへ来い」

「……お、おじちゃんは、だれ?」


 カイ少年は、薬の影響と悪臭のショックで混乱しているようだった。

 レオンハルトはガスマスクを外し(まだ臭いが、耐えられるレベルだ)、少年の頭を撫でた。


「味方だ。もう、怖い思いはしなくていい」


          ◇


 スカーレットは祭壇の中央、演壇の前に立った。

 彼女は持参した魔導幻灯機プロジェクターを設置し、まだ混乱の最中にある群衆に向かって呼びかけた。


「皆様。おはようございます」


 よく通る声。

 貴族たちが、涙目のまま彼女を見上げる。


「良い目覚めですね。……さて、脳の霧が晴れたところで、少し『現実の話』をしましょうか」


 スカーレットは手元のスライドガラスをセットした。

 壁に映し出されたのは、美しい聖女の肖像画ではない。

 冷徹なデータ。数値とグラフ。そして、決定的な「証拠」の数々。


「これからお見せするのは、この悪臭よりも胸が悪くなる『真実』です」

「や、やめて! 見ないで!」


 ミエルが叫ぶ。

 だが、その声はむせ返る咳によって遮られた。

 もはや彼女を守る者はいない。


「授業の時間です」


 スカーレットは指示棒を構えた。

 ここからは、科学と論理による、慈悲なき公開処刑プレゼンテーションの始まりだ。

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