第65話:戴冠式、祝福された偽りの王
王都の中央にそびえ立つ大聖堂。
国教であるルミナ教の総本山であり、歴代国王の戴冠式が行われてきた神聖な場所だ。
その巨大なドーム状の空間は今、数千人の参列者で埋め尽くされていた。
上層部の貴族、近衛騎士団、高位の聖職者たち。
国の権力と武力のすべてがここに集結している。
だが、その光景は正常ではなかった。
「ああ……尊い……」
「カイ様万歳……ミエル様万歳……」
「私の心臓を、あの方々に捧げたい……」
むせ返るような甘い香り。
会場は密閉され、ミエルが散布し続ける「高濃度フェロモン」が飽和状態に達していた。
参列者たちの瞳は焦点が合わず、涙を流しながら祭壇を見つめている。呼吸をするたびに脳内麻薬が過剰分泌され、思考能力が奪われていく。
そこにあるのは厳粛な儀式ではない。狂信的なカルト教団の集会だった。
◇
祭壇の最上段。
ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光を浴びて、ミエル・キャンディは恍惚としていた。
(勝った)
彼女は眼下に広がる、ひれ伏す群衆を見下ろした。
かつて自分を嘲笑い、断罪し、泥の中に突き落とした者たちが、今は自分を神のように崇め、愛を乞うている。
(これが私の世界。みんなが私を愛し、私のために生きる世界)
彼女の胸の内で、昏い優越感が膨れ上がる。
スカーレット・ヴァレンタイン。あの生意気な女は、何か小賢しい「科学」とやらで対抗しようとしていたようだが――無駄だった。
証拠? 論理?
そんな無粋なものは、この圧倒的な「感情の奔流」の前ではゴミくず同然だ。
「……さあ、笑いなさい。カイ様」
ミエルは隣に立つ少年の肩を抱き寄せた。
豪奢な王衣を着せられたカイ少年は、薬で意識が朦朧としており、立っているのがやっとの状態だ。
ミエルは優しく――に見えるように、しかし爪が食い込むほどの強さで彼の肩を掴んだ。
「貴方は今日から王になるのよ。私のために、この国を捧げるの」
「……う、うん……ミエル様……」
虚ろな返事。
操り人形の完成度は完璧だ。
「戴冠の儀を執り行う!」
洗脳された大司教が、朗々とした声で宣言した。
彼の手には、ルミナス王国の至宝――「聖王の冠」が捧げ持たれている。
「神の御子、カイ・フォン・アークライトよ。この王冠を受け、真の王として君臨し、民を導くことを誓うか?」
「……ち、ちか……います……」
蚊の鳴くような声。
だが、熱狂した群衆の脳内では、それが「力強い王の宣言」として変換されて聞こえている。
ワァァァァッ! と歓声が上がった。
「では、冠を」
大司教が王冠を高く持ち上げる。
ゆっくりと、少年の頭上へと降ろされていく黄金の輪。
あと数十センチ。
あと数センチ。
これが頭に乗れば、戴冠は成立する。歴史は書き換えられ、この国はミエルのオモチャ箱として完成する。
ミエルは勝利の笑みを浮かべた。
終わりだ。私が、世界の中心になる。
――その時だった。
パァァァァァンッ!!
聖歌を遮り、耳をつんざくような破砕音が響き渡った。
頭上から、ガラスの雨が降り注ぐ。
「な、何事だ!?」
「天井が!?」
参列者たちが驚愕して見上げる。
大聖堂の天井ドーム。その中央にある巨大なステンドグラスが、盛大に粉砕されていた。
そして、飛び散る破片と共に、四つの黒い影が降ってきた。
逆光で顔は見えない。
だが、そのシルエットは、神聖な儀式の場にはあまりに不釣り合いで、異様だった。
顔全体を覆う、クチバシのような巨大なマスク。
全身を包む黒い戦闘服。
背中にはタンク、腰には剣、手にはガラス瓶。
ダンッ!!
ロープを使った降下で、四人は祭壇の真ん中――ミエルと群衆の間に着地した。
舞い上がる砂煙。
まるで、地獄から這い出してきたテロリストのような威容。
「ヒィッ!?」
「な、なんだあの化け物は!?」
「悪魔だ! 儀式を邪魔する悪魔が現れたぞ!」
会場がパニックに陥る。
ミエルもまた、悲鳴を上げた。
「な、なによ貴方たちは!? 衛兵! 捕らえなさい! 神聖な場を汚す不届き者たちを!」
彼女の叫びに応じ、近衛騎士たちが剣を抜く。
数百の殺意が、四人の侵入者に向けられる。
だが、先頭に立つ大柄な男――レオンハルトは、一歩も退かなかった。
彼はガスマスクの奥から、くぐもった、しかし力強い声を張り上げた。
「異議あり(オブジェクション)!!」
大聖堂の空気が震える。
「その戴冠、待ったをかけさせてもらう!」
「その声……まさか、レオンハルト!?」
ミエルが目を見開く。
死んだはずの、あるいは逃亡したはずの敗北者。それがなぜ、こんな異様な姿で現れるのか。
レオンハルトの隣で、小柄な影が動いた。
スカーレットだ。
彼女は白衣を翻し、腰のポーチから「黄色い液体の入ったガラス瓶」を取り出した。
そして、拡声魔法を使って、冷徹に告げる。
「神聖? ……いいえ、ミエル様。訂正させていただきます」
ガスマスクのレンズが、不気味に光った。
「ここはただの『ガス室』です。酸素濃度低下、および有害物質の充満を確認しました」
スカーレットは、手にしたガラス瓶を振りかぶった。
中に入っているのは、テオが命がけで作った「特製嗅覚破壊ガス・No.5」。
「これより、王宮警察特別捜査局による『強制換気』を行います」
騎士たちが殺到してくる。
ミエルが何かを叫ぼうとする。
だが、全てが遅い。
「皆様、鼻をつまんで伏せてください。……地獄の蓋が開きますよ」
スカーレットの手から、瓶が放たれた。
美しい放物線を描き、床へと吸い込まれていく黄色い悪夢。
次の瞬間、聖なる大聖堂は、歴史に残る「汚染区域」へと変貌する。




