第64話:対抗兵器「中和ガス」の調合
夜明けが迫る王宮地下、第零班ラボ。
DNA鑑定によってカイ少年の正体は暴かれた。虐待の証拠も揃った。
だが、最強のカードを手に入れたはずのスカーレットたちの表情は、決して晴れやかではなかった。
「……証拠は完璧だ。だが、それを誰に見せる?」
レオンハルトが、焦燥を滲ませて問う。
「会場にいる数千人の貴族と騎士団は、ミエルのフェロモンでラリっている。脳が『ミエル=絶対正義』で固定されている連中だ」
「ええ。今の彼らにDNA鑑定書を見せても、『捏造だ』『聖女様を陥れるな』と暴動が起きるのがオチでしょうね」
聞く耳を持たない相手に、論理は通じない。
宗教的熱狂に包まれた群衆を止めるには、言葉以上の物理的な衝撃が必要だ。
「奴らの目を覚まさせる方法があるのか? 魔法の解呪でも、数千人同時となると……」
「魔法ではありません、殿下。必要なのは『脳の強制再起動』です」
スカーレットは白衣を翻し、実験室の奥にある「ドラフトチャンバー(局所排気装置)」の前へ移動した。
強力な風魔法で内部の空気を吸い出し、有害ガスを処理する安全地帯だ。
「甘い陶酔状態にある脳に、生命の危機を感じさせるほどの『強烈な不快刺激』を与えれば、生理的な拒絶反応で洗脳は吹き飛びます」
「不快刺激?」
「はい。人間を含む生物は、快楽よりも『危険』を優先して処理するようにプログラムされていますから」
◇
スカーレットは厳重に封印された薬品棚を開け、数種類の瓶を取り出した。
それぞれに『危険』『取扱い注意』『開封厳禁』の札が貼られている。
「使用するのは、硫黄化合物の一種……『メルカプタン』類です」
「めるかぷたん?」
「ええ。腐った玉ねぎ、都市ガスの付臭剤、そしてスカンクの屁に含まれる成分の混合液です」
彼女は涼しい顔で、とんでもない物質名を列挙した。
「さらに、銀杏や古靴下の臭いの元である『酪酸』。下水の腐敗臭である『硫化水素』。これらを、人間が最も不快に感じる黄金比率でブレンドします」
スカーレットは、ガスマスクのフィルターをきつく締め直し、ゴム手袋をはめた手でスポイトを握る。
「これを揮発性の高いエステルと混ぜ、拡散力を高めます。……名付けて『特製嗅覚破壊ガス・No.5』」
「……お嬢様」
元暗殺者のレイブンが、顔を青ざめて数歩後ずさった。
「ドラフトのガラス越しでも、禍々しい気配を感じます。……それは兵器です」
「ええ、兵器ですよ。平和のためのね」
スカーレットは慎重に、液体を混合していく。
一滴、また一滴。
ビーカーの中で、黄色く濁った液体が泡立ち、邪悪な煙を上げている。
「完成しました」
数分後。スカーレットは小瓶に液体を密閉し、振り返った。
「効果測定を行います。……少しだけ、蓋を開けてみますね」
「おい待て! ここは密閉空間だぞ!」
レオンハルトが止める間もなく、彼女は小瓶の蓋を1ミリだけずらした。
プンッ。
わずかな気化ガスが、ラボの空気に触れた。
その瞬間。
「!!??!?!?」
世界が止まった。
音にならない絶叫。
レオンハルト、テオ、レイブンの三人が、同時に膝から崩れ落ち、床に手をついた。
「おぇぇぇぇぇッ!?」
テオが白目を剥いてのたうち回る。
レイブンは無言で痙攣し、口から魂が出かかっている。
レオンハルトは涙目で鼻を押さえ、床をバンバンと叩いた。
「め、目が……鼻が焼ける……ッ! なんだこれは、毒ガスだ! 戦争兵器だ!」
それは、この世の終わりの臭いだった。
真夏の生ゴミ置き場で腐った卵を煮込み、そこに一ヶ月履き続けた靴下とスカンクの死骸を放り込んだような――生物としての本能が「逃げろ!」と警鐘を鳴らす、絶対的な悪臭。
「閉めろ!! 早く閉めろォッ!!」
「げほっ、ごほっ……! こ、これは……計算以上ですね……!」
スカーレットもまた、ガスマスク越しですら感じる刺激にむせ返りながら、慌てて蓋を閉めた。
換気システムを最大出力にする。
数分後、ようやく呼吸ができるようになったラボには、死屍累々とした光景が広がっていた。
「……死ぬかと思った」
レオンハルトが、憔悴しきった顔でソファに沈んでいる。
「スカーレット。……俺は今、ミエルへの恋心など微塵も感じない。あるのは、『新鮮な空気が吸いたい』という切実な願いだけだ」
「素晴らしい。臨床実験は成功ですね」
スカーレットは満足げに頷いた。
「致死性はありませんが、精神的ダメージは即死級。……これなら、どんな甘い夢を見ている脳みそでも、物理的に叩き起こせます」
◇
兵器の中身は完成した。あとは「容器」だ。
「テオ、起きて。仕事よ」
「うぅ……鼻が……曲がった気がします……」
涙目のテオが、ふらふらと立ち上がる。
「この液体を封入する、極薄のガラス球を作って。テニスボールくらいのサイズで、投げれば簡単に割れる強度のものを」
「は、はい……」
「絶対に割るなよ、テオ」
レオンハルトが、真剣な眼差しで職人の肩に手を置いた。
「ここで割れたら、俺たちは臭すぎて社会的に死ぬ。……国の存亡がかかっているんだ」
「プレッシャーかけないでくださいよぉ!」
テオは泣きながらバーナーに向かった。
しかし、その技術は確かだった。彼は震える手で、しかしミクロン単位の精度で、美しいガラスの球体を量産していく。
中に詰められるのが地獄の液体でさえなければ、それは芸術品と呼べる代物だった。
数時間後。
木箱いっぱいに詰められた、黄色い液体の入ったガラス球――「投擲用・悪臭弾」が完成した。
「……準備完了だ」
レオンハルトが立ち上がる。
彼は漆黒の戦闘服に身を包み、背中には大剣を、腰には悪臭弾のホルダーを装着している。
そして顔には、テオ特製の「ガスマスク」。
革と金属、そしてガラスのレンズで作られた異形のマスクは、まるで近未来の特殊部隊か、世紀末の略奪者のような威圧感を放っていた。
「……王子の格好ではないな。完全にテロリストだ」
「正義の味方にしては、装備が禍々しすぎますね」
スカーレットもまた、ドレスの上に白衣を纏い、ガスマスクを装着していた。
レイブンとテオも同様だ。
地下室に並ぶ四人のガスマスク集団。どう見ても悪の組織である。
「作戦名は『オペレーション・スティンク(悪臭作戦)』」
スカーレットが宣言する。
「目標は、戴冠式が行われる大聖堂。会場の四隅にこれを投げ込み、パニックに乗じて演壇を制圧します」
「そして、正気に戻った連中に証拠を叩きつけるわけか」
「ええ。美しい香水の嘘を、現実の悪臭で吹き飛ばしてやりましょう」
ゴーン、ゴーン……。
地上から、戴冠式の始まりを告げる鐘の音が響いてきた。
それは、ミエルによる国盗りが完了するまでのカウントダウンでもあった。
「行くぞ。……歴史に残る『汚い』戦いになりそうだ」
レオンハルトが扉を開ける。
地下通路を進む四人の背中には、悲壮感と、それ以上の「やってやる」という殺気が漂っている。
(ミエル様。貴女は『香水』で国を支配しましたね)
スカーレットはガスマスクの中で、ニヤリと笑った。
(ですが、科学の世界では『悪臭』の方が分子の拡散力が強いのです。……覚悟なさい)
光あふれる地上へ。
聖なる儀式を地獄に変えるため、最強の異物たちが出撃する。




