第60話:古文書の偽造を見破れ(インク成分分析)
ガスマスクは外している。換気システムのおかげで空気は清浄だ。
だが、彼の心の霧は晴れていなかった。
「……あの血判は、本物だった」
レオンハルトが、絞り出すように呟く。
「宮廷魔導師による【王血鑑定】に間違いはない。あの光は、父上(現国王)の魔力波長と完全に一致していた」
「殿下」
「父上は、母上以外に愛する人がいたのか? カイは本当に俺の弟なのか?」
彼の瞳から、いつもの覇気が消えている。
洗脳ガスによる中毒症状は抜けた。だが、突きつけられた「証拠」の重みが、彼の騎士としての誇りを蝕んでいたのだ。
病床の父は、認知症が進んでいたのか? それとも、若き日に過ちを犯していたのか?
もしカイが本当に父の子なら、自分は正当な後継者を排除しようとする悪党ではないのか?
その迷いは、剣を鈍らせる致命的な錆となる。
コトリ。
レオンハルトの前に、湯気の立つマグカップが置かれた。
「飲んでください。特濃コーヒー、角砂糖五個入りです」
スカーレットだった。
彼女は白衣のポケットに手を突っ込み、冷徹に見下ろしている。
「脳のグルコース不足は、ネガティブな思考ループを招きます。……悩み事はリソースの無駄遣いです。事実だけを見なさい」
「スカーレット……。だが、事実はあの血判が……」
「血判? そんなものはただのタンパク質の染みです」
彼女は切り捨てた。
「逃走直前に撮影した、あの『手紙』の画像データを出してください。……私の目が節穴でないことを証明します」
◇
レオンハルトは迷いながらも、懐から「記録用魔石」を取り出し、魔力を流した。
空中にホログラムが展開される。
謁見の間でミエルが高々と掲げていた、あの「認知書」の静止画だ。
古びた羊皮紙、流麗な筆記体、そして末尾に押された赤黒い血判。
「……完璧に見えるが」
「魔法使いの視点では、そうでしょうね」
スカーレットは画像を拡大し、指で「血判」の部分を隠した。
「前提を疑いましょう。『血判が本物である』ことと、『この手紙が本物である』ことはイコールではありません」
「どういうことだ?」
「国王陛下は病弱で、頻繁に瀉血治療や検査を受けておられます。医療廃棄物として処理されるはずの血液を入手することは、城内の協力者さえいれば可能です」
「……盗んだ血で、スタンプのように押したというのか」
「血は嘘をつきませんが、それを扱う人間は嘘をつきます」
スカーレットは指をずらし、手紙の本文――「青い文字」を指し示した。
「注目すべきは、こちらのインクです」
「インク?」
「ええ。見てください、この発色を。……一〇年前の文書にしては、青色が鮮やかすぎませんか?」
言われてみれば、確かにそう見える。
羊皮紙は黄ばんで古びているのに、文字の青色だけが、まるで昨日書かれたかのように瑞々しい光沢を放っている。
「魔法で保存されていたのかもしれん」
「いいえ。光は誤魔化せません」
スカーレットは、テオを呼んだ。
「テオ。プリズムを持ってきて」
「はい!」
テオが持ってきたのは、三角形のガラス柱だ。
スカーレットはそれをホログラムの光路に割り込ませた。
インク部分の光が分光され、壁に虹色の帯となって投影される。
「分光分析(スペクトル解析)です。物質はそれぞれ、特定の波長の光を吸収・反射します。この虹の欠け方を見れば、インクに含まれる成分が特定できます」
彼女は壁の虹色を指でなぞり、ある一点で止めた。
「……特有の吸収線。銅由来の青色顔料。そして、この不純物のパターン」
スカーレットは振り返り、ニヤリと不敵に笑った。
「特定しました。このインクの原料は『アズライト(藍銅鉱)』。それも、特定の不純物を含んだドラコニアの北部鉱山でのみ採掘される、特殊な結晶です」
「ドラコニア産……ミエルの故郷か」
「はい。そして、ここからが重要です」
スカーレットは、机の上に積み上げられていた地質学の資料と、最新の貿易記録の羊皮紙を広げた。
「殿下。この『ドラコニア産アズライト』の鉱脈が発見され、新しい顔料として市場に流通し始めたのは、いつだと思いますか?」
「……いつだ?」
「三年前です」
レオンハルトが目を見開く。
思考が急速に回転し、一つの結論にたどり着く。
「……待て。手紙の日付は……」
「『一〇年前』となっていますね」
スカーレットは、ホログラムの手紙の日付部分を叩いた。
「一〇年前の国王陛下は、未来で発明されるインクを取り寄せて、手紙を書く能力をお持ちだったのですか?」
「……あり得ない」
「物理的なタイムパラドックスです。この手紙は、一〇年前に書かれたものではありません。最近になって、ミエルが故郷のインクを使って偽造したものです」
決定的な矛盾。
魔法鑑定では「血」の真偽しか判定できない。だが、「物質の歴史」という科学的な視点で見れば、その手紙は存在し得ないオーパーツだったのだ。
「……偽物、か」
レオンハルトが、深く息を吐き出した。
その顔からは、迷いと苦悩が消え去っていた。
「父上は、裏切っていなかったんだな」
「ええ。この手紙は、貴方の父君を侮辱する贋作です」
「……そうか」
レオンハルトは立ち上がった。
その全身から放たれる気配が変わる。迷える青年ではなく、国を守る王子の覇気が戻っていた。
「目が覚めた。……俺たちが戦う相手は、弟ではない。王家の血を騙り、父の名を汚す詐欺師だ」
「その意気です」
スカーレットは満足げに頷く。
だが、すぐに表情を引き締めた。
「ですが殿下。これだけでは不十分です」
「何? 偽造だと証明しただろう」
「ええ。ですが、相手は国を掌握した『聖女』です。インクの矛盾を突いたところで、彼女はこう言い逃れするでしょう」
「――『手紙の原本は汚れてしまったので、書き直したものです。ですが、カイ様が陛下の子である事実は変わりません』と」
苦しい言い訳だが、洗脳された民衆はそれを信じてしまうだろう。
「形式」の偽造を暴くだけでは足りない。「実体」を否定しなければならない。
「完全に息の根を止めるには、手紙ではなく、『カイ少年そのもの』が偽物であることを、生物学的に証明する必要があります」
「……DNA鑑定か」
「はい。カイ少年の唾液は、以前のパーティでグラスから採取済みです。あとは比較対象……父親である『国王陛下』のDNAサンプルさえあれば」
そこで、レオンハルトの表情が再び曇った。
「……それが一番の問題だ」
「え?」
「現在、父上の寝室はミエル派の騎士団によって厳重に警備されている。面会謝絶だ」
「強行突破して、髪の毛一本いただくことは?」
「不可能だ。俺たちが近づけば、奴らは父上を人質に取るかもしれない。それに、今の父上は洗脳状態だ。俺を見れば『逆賊』として処刑を命じるだろう」
生きてはいるが、手が出せない。
最も近い場所にいるはずの「父親」のサンプルが、最も遠い。
沈黙がラボを支配する。
比較対象がない以上、DNA鑑定は成立しない。
カイが「王の子ではない」と証明する手立てがない。
詰みか――そう思われた時。
「……いや、待て」
レオンハルトが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「ある。……一つだけ」
「あるのですか? 陛下に近づかずに、DNAを入手する方法が」
「ああ。王家の習わしだ」
彼は、床を……このラボのさらに地下深くを指差した。
「『へその緒』だ。この国には、王族が生まれた時、母と子を繋いでいた絆として、へその緒を桐箱に入れて保管する風習がある」
「へその緒……?」
「ああ。歴代の王はもちろん、現国王である父上の分も、地下の保管庫に眠っているはずだ」
スカーレットの目が輝いた。
「へその緒! 素晴らしい! 乾燥状態で保存されているなら、DNAは半永久的に残ります! 最高のサンプルです!」
「だが、場所が問題だ」
レオンハルトは剣呑な表情で告げる。
「保管場所は、このラボのさらに下。地下五階、『王家の地下墓所』の宝物庫だ」
「……墓場ですか」
「王宮で最も警備が厳重な聖域だ。現在はミエルに洗脳された近衛騎士団が、蟻一匹通さない警備を敷いているだろう」
テオが震え上がる。
「ぼ、墓荒らしですか!? しかも王家の! 呪われますよ!?」
「ああ。先祖の眠りを妨げる、親不孝な息子だ」
レオンハルトは剣を手に取り、自嘲気味に、しかし力強く笑った。
「だが、ご先祖様も『偽物の血縁』を押し付けられるよりはマシだろう。……俺が道を開く」
「了解しました」
スカーレットは、ピッキングツールと溶解液(酸)を準備する。
「ターゲットは地下墓所、最奥の宝物庫。敵は最強の騎士団。……深夜〇時、作戦開始です」
迷いは消えた。
国の運命と、父の名誉を賭けた、静かで激しい潜入劇が始まる。




