第59話:香水とフェロモンの化学式
地下三階、第零班ラボ。
分厚い鉄扉は閉ざされ、換気システムは「内部循環モード」に切り替えられている。ここは、狂気に染まった王宮の中で唯一残された、理性の聖域のはずだった。
だが、見えない脅威は、わずかな隙間からも忍び寄る。
「……う、ぐ……」
入り口付近で剣を構え、見張りをしていたレオンハルトが、ふらりと膝をついた。
脂汗を流し、虚ろな目で扉の方を見つめている。
「殿下?」
「……ミエル。会いたい。……彼女に謝らなければ」
うわ言のように呟くその言葉に、スカーレットは戦慄した。
彼の鼻に塗ったワセリンはまだ残っている。だが、長時間にわたる高濃度のフェロモン曝露が、物理防御の限界を超えようとしているのだ。
「ダメだ……俺は、王位を返上して……彼女に跪くべきだ……」
「しっかりしてください!」
スカーレットは駆け寄り、あらかじめ用意していた濡れタオル(アルカリ水溶液を含ませたもの)を、レオンハルトの口と鼻に押し当てた。
「深呼吸を! ……やはり、この『匂い』はフィルターさえも貫通する浸透圧を持っていますね」
完全密閉したはずのラボ内にも、甘ったるい花の香りが微かに漂い始めていた。
換気ダクトのフィルターの目よりも細かい粒子。あるいは、建物の隙間から滲み出てくるガス。
このままでは、時間と共に全員が汚染され、ここも陥落する。
「……くっ。すまない、頭が割れそうだ」
「喋らないで。脳への酸素供給を優先してください」
スカーレットはレオンハルトをソファに座らせると、白衣を翻して分析機器の前へと走った。
「敵を知らなければ、防御もできません。……丸裸にしてやりましょう」
◇
スカーレットは、吸気口付近で採取した空気と、以前レオンハルトの服から採取していたピンク色の微粒子を、質量分析器にかけた。
魔導光がサンプルを透過し、壁に巨大な影――分子の構造式を投影する。
複雑に組み合わさった亀の甲(ベンゼン環)と、長く伸びる鎖。
スカーレットはチョークを走らせ、黒板にその化学式を書き写していく。
「……正体が分かりました」
数分後。彼女はチョークを置き、忌々しげにその図を睨みつけた。
「ベースとなっている骨格は『フェネチルアミン(PEA)』。人間が恋に落ちた時、脳内で爆発的に分泌される神経伝達物質です」
「恋の……成分ですか?」
テオが不思議そうに尋ねる。
「ええ。これ自体は自然なものですが、問題はその修飾基です」
スカーレットは、分子の端に結合している異常な構造を指し示した。
「ここに、『オキシトシン(信頼)』と『β-エンドルフィン(快楽・鎮痛)』によく似た合成アルカロイドが、魔法的に結合されています」
「つまり、どういうことだ?」
タオル越しに呼吸を整えたレオンハルトが問う。
「これは聖女の奇跡などではありません。『脳内麻薬の強制カクテル』です」
スカーレットは断言した。
「吸い込めば、脳の報酬系がハッキングされます。目の前の対象を無条件に『愛しい』『守りたい』と誤認し、同時に強烈な幸福感を与える。……理性や論理を司る前頭葉を麻痺させ、本能だけで従う奴隷を作り出す薬です」
魔法防御が効かない理由も明白だ。
これは魔力による精神操作ではない。物質が受容体に結合することで起きる、純粋な「化学反応」だからだ。
「なんて悪趣味な……」
「ええ。ですが、構造が分かれば対処法はあります」
スカーレットは黒板の図を消し、新たな設計図を描き始めた。
「この分子はサイズが大きく、粘着性が高い。そして炭素骨格を持つため、『活性炭』に吸着されやすい性質があります」
彼女はテオに向き直る。
「テオ。備蓄庫にある木炭を蒸し焼きにして、微細な穴を無数に持つ『活性炭』を作って」
「はい!」
「そして、それを詰めた『吸着缶』付きのマスクを作るのよ。……デザインは機能性重視で」
数時間後。
ラボには、異様な集団が誕生していた。
顔の半分を覆う、革と金属とガラスで作られたマスク。
口元には、活性炭がぎっしりと詰まった円筒形の缶が突き出ている。
まるで、中世のペスト医師のような、あるいは近未来の兵士のような、不気味なシルエット。
特製ガスマスクである。
「……すー、はー」
マスクを装着したレオンハルトが、深呼吸をした。
「……凄いな。頭痛が消えた。空気の味がクリアだ」
「活性炭が毒素を物理的に吸着しています。これで、どんなに高濃度のフェロモンの中に飛び込んでも、私たちは正気を保てます」
スカーレットも自分用のマスクを調整しながら頷く。
防御は固まった。




