第58話:四面楚歌、ラボへの籠城
王宮の中庭。
手入れの行き届いた薔薇の植え込みを、泥だらけのドレスと正装の二人が駆け抜ける。
月明かりの下、スカーレットとレオンハルトは息を切らして走っていた。
「はっ、はっ……! しつこいですね、彼らは!」
「全くだ! あいつら、俺の部下だった頃より動きが良いぞ!」
レオンハルトが毒づきながら、背後を振り返る。
そこには、松明と剣を持った近衛騎士たちの集団が迫っていた。
だが、それは通常の追跡劇とは決定的に異なっていた。彼らの口から発せられる言葉は、怒号や罵倒ではなかったのだ。
「待ってください、殿下ぁ!」
「逃げないでください! 一緒にカイ様を愛でましょう!」
「貴方の心臓をミエル様に捧げれば、きっと許してくださいますよぉ!」
満面の笑み。
涙を流すほどの感動に打ち震えながら、彼らは殺意のこもった魔法を放ってくる。
炎の弾がスカーレットの横を掠め、植え込みを焼き払った。
(ドーパミン過剰による多幸感と、排他的な攻撃性の同居。……まるで薬物中毒者の暴動ね)
スカーレットは走りながら分析する。
彼らは幸福なのだ。脳内麻薬によって、「敵を排除することが最高の喜び」だと誤認させられている。だからこそ、躊躇がない。痛みも恐怖も感じていない。
ゾンビよりもタチの悪い、「笑顔の狂信者」の群れだった。
「くそッ! どけ!」
前方に回り込んできた騎士を、レオンハルトがなぎ払う。
だが、彼は剣を抜いていなかった。鞘に収めたまま、あくまで打撃武器として振るっている。
「邪魔だ! ……頼むから、俺に斬らせるな!」
苦渋の叫び。
相手は昨日まで背中を預けていた部下であり、友だ。彼らが正気でないと分かっている以上、その命を奪うことはできない。
レオンハルトの剣技は冴え渡っているが、不殺の制約がある以上、防戦一方にならざるを得ない。
(このままでは押し切られます。……目眩ましの閃光弾? いいえ、視覚を奪っても彼らは『臭い』で追ってくる)
スカーレットは懐を探った。
以前、護身用に試作していた瓶がある。
「殿下、目を閉じて! 呼吸を止めてください!」
「なっ!?」
スカーレットは躊躇なく、その瓶を追っ手の足元に叩きつけた。
ボンッ!!
破裂音と共に、黄色い煙が爆発的に広がる。
煙に巻かれた騎士たちが、一斉に動きを止めた。
「ぐ、あぁっ!? 目が、痛い!?」
「げほっ、ごほっ! 喉が焼けるぅ!」
幸福な笑顔が消え、苦悶の表情に変わる。
涙と鼻水を流し、その場にうずくまる騎士たち。
「何だこれは! 毒ガスか!?」
「いいえ。硫黄とトウガラシ成分を濃縮した、ただの『催涙ガス』です。後遺症はありません、今のうちに!」
スカーレットはレオンハルトの手を引き、煙の晴れ間を縫って走る。
目指すは、王宮の裏手にある厨房口だ。
◇
厨房エリアに滑り込む。
だが、廊下の向こうからも、こちらからも、洗脳された兵士たちの足音が迫っていた。
主要な通路は、すでに封鎖されている。
「詰んだか……!」
「いいえ。道はあります」
スカーレットが指差したのは、厨房の隅にある、黒ずんだ鉄の扉だった。
生ゴミや廃棄物を地下の集積場へ落とすための投入口。
ダストシュートだ。
「殿下、あそこへ!」
「はあ!? ダストシュートだぞ!? 王族にゴミと一緒になれと言うのか!」
潔癖なレオンハルトが顔を引きつらせる。
だが、スカーレットは真顔で返した。
「ゴミ扱いされるのと、美しい死体になるのと、どちらがお好みで?」
「……くそっ! 覚えてろよ!」
選択の余地はない。
レオンハルトは覚悟を決め、扉を開けた。腐敗臭が鼻をつく暗い穴。
彼はスカーレットを抱き寄せると、躊躇なくその闇へと身を躍らせた。
ヒュンッ……。
滑り台のような急勾配を、猛スピードで滑り落ちる。
体感時間は数秒。
やがて、ドンッという衝撃と共に、二人は柔らかな(そして臭い)何かの上に放り出された。
「……ぐっ」
レオンハルトが顔をしかめて起き上がる。
そこは、地下三階の廃棄物集積所。生ゴミの山の上だった。
ドレスも礼服も汚れ放題だが、今は気にしている場合ではない。
「走りますよ! ここまで来れば、ラボは目と鼻の先です!」
スカーレットは彼の手を取り、薄暗い地下通路を駆ける。
かつて「ゴミ拾い班」と蔑まれた場所。
だが今、この場所だけが、狂った王宮に残された唯一の希望だった。
第零班ラボの重厚な鉄扉が見えてくる。
背後にある階段からは、すでに追っ手の足音が響いていた。
「開け! 緊急コード・ゼロ!」
レオンハルトが認証魔道具に手をかざす。
魔力が認証され、ロックが解除される音。
二人が中に転がり込むと同時に、スカーレットが内側から緊急閉鎖レバーを下ろした。
ガチャン、ゴウン!!
重い施錠音が響き、数本の閂が自動的に下りる。
扉の外で、ドンドンと叩く音と、「開けろ! 愛を拒絶するな!」という叫び声が聞こえるが、分厚い防音壁の前では遠いラジオのようだ。
「……はぁ、はぁ」
スカーレットはその場に座り込んだ。
直後、奥から武装した人影が飛び出してくる。
「お嬢様! 殿下!」
「きょ、局長! 無事ですか!?」
レイブンとテオだ。
レイブンは両手に短剣を構え、テオはガラス製の盾を抱えて震えている。
彼らは地下にいたため、地上のフェロモンガスを吸っていない。正気のままだ。
「無事よ。……少なくとも、脳みそはね」
スカーレットは立ち上がり、深呼吸をした。
ラボの空気は、薬品とカビの臭いがする。だが、あの甘ったるい花の香りはない。
「換気システムは正常稼働中ですね。高性能フィルターのおかげで、ここは外の世界から隔離された『無菌室』です」
◇
レオンハルトは、生ゴミで汚れた上着を脱ぎ捨て、ソファに沈み込んだ。
その顔には、疲労と絶望の色が濃い。
「……終わったな」
彼は天井を見上げる。
「騎士団、魔法省、文官たち。そして……父上までも。国中が敵だ」
「……」
「俺たちは、国という巨大な胃袋に飲み込まれた異物だ。もはや、逃げ場も勝ち目もない」
国のトップが洗脳され、軍事力も奪われた。
たった四人で何ができるというのか。
沈痛な空気がラボを包む。テオは泣き出しそうで、レイブンも痛ましげに目を伏せた。
だが。
カツ、カツ、と乾いたヒールの音が響いた。
スカーレットだ。
彼女は汚れたドレスのまま、黒板の前へと歩み寄った。そして、チョークを手に取る。
「悲観するには早すぎます、殿下。……異物には異物の、戦い方があります」
カッカッ、と力強い音がする。
彼女はボードに大きく書き殴った。
【敵:ルミナス王国全土】
【味方:4名】
圧倒的な戦力差。
だが、スカーレットはその横に、花丸のような二重丸をつけた。
「状況を整理しましょう。敵の武器は『感情(洗脳)』と『数』です」
「ああ、勝ち目がない」
「いいえ。こちらの武器は『理屈(科学)』と『質』です」
彼女は振り返り、ニヤリと笑った。
その顔は、絶望の淵にいる令嬢の顔ではなかった。難解な実験に挑む、マッドサイエンティストの顔だ。
「包囲されていますが、ここには最新の分析機材と、優秀なスタッフ、そして……最高級のチョコレートの備蓄があります」
彼女は机の引き出しから、隠していたチョコの箱を取り出し、一粒口に放り込んだ。
「十分です。この地下室から、国の空気をすべて入れ替えて(換気して)やりましょう」
その不遜な態度に、レオンハルトが顔を上げた。
呆気にとられ、そして――つられて笑い出す。
「……はは。国を相手に『十分』と言い切るか」
「当然です。ウイルスがどれだけ増殖しても、ワクチンが一つあれば駆逐できますから」
スカーレットは黒板に、次なる作戦名を書き記した。
「作戦名は『オペレーション・ベンチレーション(換気作戦)』。……反撃開始です」
地下の砦。
世界で唯一、正気を保った四人が、国を救うための叛逆を企てる。




