第57話:感染する「好感度」
謁見の間から場所を移し、王宮の大広間で行われた歓迎立食パーティ。
そこは、この世の楽園のようであり――そして、吐き気を催すほどの地獄でもあった。
「ああ、カイ様……なんと愛らしい」
「ミエル様、我が領地の別荘をぜひお使いください」
「貴女の微笑みのためなら、この命など惜しくはない!」
会場の中心には、ミエルと少年カイがいる。
彼らを取り囲むのは、国の重鎮である大臣や、歴戦の騎士たちだ。
普段ならば派閥争いやメンツに拘る彼らが、今は一様に頬を紅潮させ、とろんとした瞳でミエルを見つめている。その様は、まるで恋に狂った若者のようであり、あるいは――強烈なドラッグにキメられた中毒者のようだった。
(……異常だわ)
会場の隅、壁際で息を潜めるスカーレットは、扇子の陰で顔をしかめた。
(接触感染ではない。飛沫、あるいはエアロゾル感染。有効射程は半径五メートル……いいえ、空調に乗って会場全体に広がっている)
彼女はドレスの裏地に仕込んだ活性炭シート越しに、浅く呼吸をする。
それでもなお、フィルターをすり抜けてくる甘ったるい香り。それは嗅覚を刺激するだけでなく、脳の奥を直接撫で回されるような不快感を伴っていた。
恐るべきは、その感染力と即効性だ。
ミエルが微笑むたびに、彼女のドレスや装飾花から「ピンク色の微粒子」が散布され、それを吸い込んだ者が次々と「信者」へと堕ちていく。
パンデミック(感染爆発)。
この国の中枢が、たった一人の女の「匂い」によって乗っ取られようとしていた。
◇
「……スカーレット」
不意に、隣から弱々しい声が聞こえた。
見れば、レオンハルトがふらりとよろめき、壁に手をついている。
その瞳は焦点が定まらず、どこか夢見心地な色を帯び始めていた。
「殿下?」
「俺は……間違っていたのかもしれない」
レオンハルトが、うわごとのように呟く。
「ミエルは、あんなに清らかだ。カイも、父上に似ている……。俺が意地を張らずに王位を譲れば、すべて丸く収まるんじゃないか?」
「ッ!?」
スカーレットは彼の手を掴んだ。熱い。
そして、彼の顔を見て舌打ちした。
(ワセリンが……溶けている!)
鼻の粘膜を保護するために塗らせたワセリンが、会場の熱気と彼自身の体温で溶解し、流れ落ちてしまっていたのだ。
防御壁が失われ、そこから猛毒のフェロモンが侵入している。
「あの方に跪きたい……」
レオンハルトが、ミエルの方へふらふらと歩き出そうとする。
まずい。
前頭葉の判断能力が低下している。このままでは、最強の騎士が敵に回る。そうなれば、スカーレット一人では脱出することすら不可能になる。
(議論している時間はない。……荒療治でいきます!)
スカーレットは躊躇しなかった。
懐から小さな茶色の小瓶を取り出すと、親指で蓋を弾き飛ばす。
そして、レオンハルトの首根っこを掴んで引き寄せ、その鼻先に瓶を突きつけた。
「殿下、深呼吸してください!!」
「え……?」
レオンハルトが息を吸い込んだ、その瞬間。
ズドンッ!!
脳髄を直接ハンマーで殴られたような衝撃が、彼の神経を貫いた。
「ごふッ!? げほっ、ごほっ、おえぇっ……!!」
レオンハルトはその場に崩れ落ち、激しくむせ返った。
目から涙が、鼻からは鼻水が止まらない。喉が焼けるように熱い。
甘い恋の陶酔など、一瞬で吹き飛ぶほどの激痛と刺激臭。
「な、なんだこれは……!?」
「『濃縮アンモニア水』です。気付け薬ですよ」
スカーレットは素早く瓶の蓋を閉めた。
「脳の受容体がリセットされましたね。……どうやら『愛の魔法』も、アンモニアの悪臭には勝てないようです」
「は、鼻が……もげるかと……」
レオンハルトは涙目で顔を上げた。
だが、その瞳からは濁りが消え、いつもの鋭い理性の光が戻っていた。
「……助かった。危うく、あの女の靴を舐めるところだった」
「それは見たくありませんね。吐き気がします」




