第56話:王家の手紙と「血の紋章」
熱狂に包まれた謁見の間。
甘ったるいフェロモンの香りが充満する中、ミエル・キャンディは優雅な所作で祭壇へと進み出た。
その手には、古びた羊皮紙が捧げ持たれている。
「陛下。そして宰相閣下。これこそが、カイ様が王家の血を引く証……亡き母君に託された、陛下ご直筆の『認知書』でございます」
ミエルはうっとりとした表情で、その羊皮紙を掲げた。
年月を感じさせる変色した紙片。その末尾には、署名の代わりに、赤黒く酸化した「血判(血の拇印)」が押されている。
「一〇年前……陛下は、身分違いの恋に悩みながらも、愛する女性とその結晶であるカイ様のために、自らの血で誓いを立てられたのです。『この子は我が子である。いずれ時期が来れば、王家に迎え入れよ』と」
それは、感動的な悲恋の物語だった。
洗脳された貴族たちは、涙を流して聞き入っている。
玉座に座る国王――レオンハルトの父もまた、虚ろな目で頷いていた。
「おお……。そうであったか。私は、愛ゆえに……」
記憶の改竄が行われている。曖昧な記憶の隙間に、ミエルの語る嘘が「真実」として滑り込んでいく。
「直ちに鑑定せよ!」
宰相が叫ぶ。
宮廷筆頭魔導師が、震える手で杖をかざした。
この世界において、血統の証明は絶対だ。高貴な血には固有の魔力波長が宿る。それを偽ることは、魔法的に不可能とされている。
「――【王血鑑定】!」
杖の先から光が放たれ、羊皮紙の血判を打つ。
カッ!!
次の瞬間、血判が眩い黄金色の輝きを放った。
光は宙空で収束し、一つの紋章を描き出す。
天秤と剣。ルミナス王家を象徴する、高貴なる紋章がホログラムのように浮かび上がったのだ。
「おおぉぉ……っ!」
会場がどよめき、次々と人がひれ伏していく。
「本物だ! 間違いなく、国王陛下の血だ!」
「奇跡だ……! 女神は我らに、新たな希望をくださった!」
疑う余地などなかった。
魔法が、世界が、この血判を「真正」であると保証したのだ。
カイ少年は、紛れもなく王の子である。その事実は、フェロモンによる洗脳と相まって、強固な信仰へと変わっていく。
◇
会場の末席。
ワセリンで鼻を塞ぎ、辛うじて正気を保っていたレオンハルトが、がっくりと肩を落とした。
「……父上の血だと?」
彼は玉座の父を見つめる。
「馬鹿な……。父上は母上を愛していた。側室さえ置かず、母上が亡くなった後も独り身を貫いた人だ。隠し子など……」
「殿下」
「だが、鑑定は絶対だ。あの紋章は王家の血にしか反応しない。……俺は、知らなかっただけなのか? 父上の裏切りを」
レオンハルトの心が揺らぐ。
もしカイが本当に父の子なら、自分は「正当な後継者を排除しようとする悪役」ではないのか? 戦う大義はあるのか?
その迷いは、致命的な隙となりうる。
しかし。
隣に立つスカーレットだけは、冷徹な科学者の目を捨てていなかった。
「殿下。感情で判断しないでください。事実だけを見なさい」
彼女は扇子の陰で、隠し持っていた「単眼鏡」型の魔道具を目に当てた。
それは以前、テオに作らせた「分光器」を内蔵した特殊レンズだ。
「血は嘘をつきません。ですが、血を扱う人間は嘘をつきます」
スカーレットの瞳孔が収縮する。
「――【解析】」
視界がズームされ、ミエルが掲げる羊皮紙が拡大される。
彼女が見ているのは、光り輝く血判ではない。
その周囲に書かれている、美しい筆記体の「文字」だ。
(……綺麗な青色。鮮やかすぎるわ)
一〇年前の文書にしては、インクの発色が良すぎる。
通常、植物性の染料ならば経年劣化で茶褐色に退色しているはずだ。だが、この青はまるで昨日書かれたかのように瑞々しい。
スカーレットは指示を出す。
「今ここで『偽造だ!』と叫んでも、洗脳された彼らには届きません。揉み消されて終わりです。あの手紙の『画像データ』が必要です」
「分かった」
レオンハルトは懐から、記録用の魔石を取り出した。
彼は扇子の隙間から、ミエルが掲げる手紙にレンズを向け、魔力を流す。
カシャッ。
微かなシャッター音と共に、手紙の高解像度画像が魔石に焼き付けられた。
「……撮った。行くぞ」
証拠は確保した。あとはここから脱出し、ラボで詳細な分析データを揃えて反撃するだけだ。
二人は目立たぬように後退し、扉の方へ向かおうとした。
――だが。
その微弱な魔力の動きを、壇上の「聖女」は見逃さなかった。
「あら?」
ミエルが、ふと顔を上げた。
聖母のような慈愛に満ちた微笑みのまま、彼女は会場の隅にいる二人を指差した。
「……あそこに、新しい王の誕生を喜ばない『不浄な者たち』がいるようですわ」
その一言は、洗脳された群衆にとって「攻撃命令」に等しかった。
ギロリ。
百人近いの貴族、そして武装した近衛兵たちが、一斉に振り返る。
その瞳に、理性はない。あるのは、聖女の敵を排除しようとする、狂信的な殺意だけだ。
「……レオンハルト殿下?」
「なぜ逃げるのですか? カイ様を祝福しないのですか?」
「まさか……逆賊か!?」
空気が凍りつく。
四面楚歌。国中が敵。
スカーレットは扇子を畳み、ドレスの裾をまくり上げた(緊急回避モード)。
「……どうやら、学会発表の前に『運動の時間』のようですね」
「ああ。エスコートしてやる。……死ぬ気で走れ!」
レオンハルトが剣の柄に手をかけると同時に、怒号が爆発した。
逃走劇が始まる。




