第55話:聖女の帰還、あるいは悪夢の再来
王宮の中枢、「謁見の間」。
天井まで届く巨大なステンドグラスから極彩色の光が降り注ぐこの場所は、ルミナス王国の威信を象徴する空間だ。
普段ならば、張り詰めた緊張感と静寂が支配する場である。
だが、今日そこにある空気は、異様だった。
「……空気が、甘いな」
末席に控えたレオンハルトが、不快そうに顔をしかめた。
彼は鼻の下を指で拭う仕草をする。
「ワセリンのせいで呼吸がしづらい。……本当にこれで防げるのか?」
「我慢してください、殿下。これでも足りないくらいです」
隣に立つスカーレットは、扇子で口元を隠しながら囁いた。
彼女のドレスの裏地には活性炭シートが縫い込まれ、扇子の柄には小型の酸素ボンベが仕込まれている。完全な対化学兵器装備だ。
「周囲をご覧なさい。……既に汚染は始まっています」
スカーレットの視線の先には、百人近いの高位貴族たちが並んでいる。
彼らの様子がおかしい。
顔は酒に酔ったように紅潮し、瞳はとろんと潤んでいる。隣国からの使節団を迎えるという緊張感は皆無で、まるで恋人に会う前のような、浮ついた多幸感が漂っていた。
(集団陶酔の初期症状。……換気システムが機能していない? いいえ、空調に乗って、会場全体に高濃度の成分が循環しているわ)
スカーレットは冷静に分析する。
これは魔法による精神干渉ではない。もっと原始的で、抗いがたい生物学的ハッキングだ。
その時。
重厚なファンファーレが鳴り響き、大扉がゆっくりと開かれた。
「――ドラコニア王国使節団、入場!」
衛兵の声と共に、まばゆい光が差し込む。
先頭を歩いてきたのは、一人の女性だった。
「あぁ……」
「なんて、尊い……」
貴族たちの口から、感嘆の吐息が漏れる。
純白の修道服(聖衣)を纏い、蜂蜜色の髪を揺らす美女。
かつてこの国を追放された「嘘つき令嬢」、ミエル・キャンディだ。
だが、その姿に以前の小賢しさはなかった。
背中には最新鋭の浮遊魔道具による「光輪」が後光のように輝き、歩くたびにキラキラと魔力の粒子が舞う。その立ち居振る舞いは、慈愛に満ちた女神そのもの。
聖女。
誰もがそう呼ばずにはいられない、圧倒的なカリスマ性がそこにあった。
(……演出過剰ね。光と音、そして高濃度のフェロモン散布)
スカーレットだけが、冷ややかな目でその舞台装置を見抜いていた。
ミエルが歩くたび、ピンク色の見えない粒子が爆発的に拡散している。最前列の貴族たちが、ふらりとよろめき、恍惚とした表情で膝をつく。
(異常だ。初対面の、しかも他国の人間に対し、脳内麻薬が過剰分泌されている。……これは『好意』ではない。『依存』だわ)
ミエルは玉座の前まで進むと、優雅にスカートの裾を摘んだ。
玉座には、病み上がりの国王――レオンハルトの父が座している。
「お久しぶりでございます、陛下」
鈴を転がすような、甘い声。
「かつて愚かだった私を許し、こうして謁見の機会をいただけたこと、女神に感謝いたします」
「う、うむ……。よくぞ戻った、ミエルよ」
国王の声が震えている。
本来ならば、追放された罪人を謁見させるなどあり得ない。だが、国王の瞳はすでに焦点が合っておらず、ミエルに対して父親のようなデレデレとした表情を向けていた。
王まですでに、毒に侵されている。
「本日は、陛下にどうしてもお引き合わせしたい方がおりまして」
ミエルは微笑み、背後に控えていた小さな影を招いた。
「いらっしゃい、カイ様」
彼女の傍らに、十歳ほどの少年がおずおずと進み出る。
絹のような金髪に、透き通るような碧眼。線の細い美少年だ。
その顔立ちは、祭壇に飾られている「国王の若かりし頃の肖像画」に、不気味なほど似ていた。
「ご紹介します」
ミエルは少年の肩に手を置き、会場全体に響く声で宣言した。
「この子こそ、陛下がかつて愛した女性との間に生まれたご落胤……カイ・フォン・アークライト様です」
隠し子。
その単語が落ちた瞬間、会場が一瞬静まり返り――そして、爆発的な歓喜に包まれた。
「おお! なんと愛らしい!」
「陛下に瓜二つだ! 間違いなく王家の血筋だ!」
「奇跡だ、女神が我らに世継ぎをくださった!」
異常だった。
第一王子が廃嫡されそうな状況で、第二王子レオンハルトが次期国王と目されているこの状況で、突然現れた「どこの馬の骨とも知れぬ隠し子」を、諸手を挙げて歓迎するなどあり得ない。
通常なら「詐欺だ」「証拠を出せ」と怒号が飛ぶ場面だ。
しかし、宰相までもが涙ぐんで頷いている。
「ああ……このオーラ、この気品。カイ様こそ、真の王に相応しい」
思考停止。
スカーレットの背筋に、冷たいものが走った。
(思考プロセスが省略されている。疑う工程が、化学物質によって脳から物理的にスキップさせられた)
(これは説得でも交渉でもない。……パンデミック(感染爆発)だわ)
会場中が「カイ様万歳!」「ミエル様万歳!」の熱狂に包まれる。
その中で、正気を保っているのは、鼻にワセリンを塗ったスカーレットとレオンハルトだけ。
完全なる孤立。
その時。
ふと、ミエルが顔を上げ、会場の隅にいる二人を見た。
聖女の慈愛に満ちた微笑みのまま、彼女の目がスカーレットを射抜く。
彼女の唇が、音もなく動いた。
『ざ・ま・あ・み・ろ』
その瞳の奥には、かつて断罪された屈辱を晴らす、昏い喜びの炎が燃え盛っていた。
彼女は帰ってきたのだ。
スカーレットの「科学」を、圧倒的な「感情の暴力」でねじ伏せるために。
「……っ」
レオンハルトが剣の柄に手をかけた。
「斬るか? 今ならまだ……」
「ダメです、殿下」
スカーレットは扇子で彼の手を制した。
「今動けば、我々が『聖女と御子を襲う逆賊』として、その場で近衛兵に処刑されます。……周囲を見てください」
かつての部下である騎士たちも、今はミエルに心酔し、彼女を守る壁となっている。彼らに刃を向けることはできない。
「まずは証拠を確認しましょう。彼らが『本物だ』と信じ込まされている根拠を」
ミエルが、宰相に向かって恭しく一枚の羊皮紙を差し出した。
「証拠はここに。陛下が母君に託された、認知書でございます」
古びた紙片。その末尾には、茶色く変色した血判が押されている。
宰相が鑑定の魔道具をかざすと、血判から王家の紋章がホログラムのように浮かび上がった。
「おお……! 本物だ! 間違いなく陛下の血だ!」
会場のボルテージが最高潮に達する。
誰もが疑わない。魔法が、世界が、それを本物だと認めたからだ。
だが。
スカーレットだけは、扇子の陰で「単眼鏡」を目に当て、冷徹にその紙片を睨みつけていた。
「……見せていただきましょう」
彼女の瞳孔が収縮する。
「その『完璧な証拠』の、化学的なボロを」




