第54話:嵐の前の静けさと、消えたカエル
騎士団長親子の断罪から数ヶ月。
王宮地下三階、王立科学捜査局(CSI)――旧・第零班ラボは、かつての「ゴミ捨て場」の面影もないほど洗練された空間になっていた。
最新鋭の換気システムが静かに稼働し、防塵加工された壁は白く輝いている。
増員された若き研究員たちが、顕微鏡やフラスコを持って忙しなく行き交う中、局長であるスカーレットは、部屋の奥にある水槽の前に立っていた。
「……おかしいですね」
彼女は眉をひそめ、ガラス面を指先でコンコンと叩いた。
そこは、彼女が「生物学的環境センサー」として飼育している、環境変化に敏感な「沼ウシガエル」の水槽だ。
普段なら、餌を求めてガラスに張り付いてくる彼らが、今日は一匹も見当たらない。
「脱走ですか?」
後ろから声をかけたのは、白衣姿も板についてきたガラス職人のテオだ。
「いいえ。……見て、底の方を」
スカーレットが指差す先。水槽の底に敷かれた泥の中に、カエルたちが重なり合うようにして潜り込んでいた。
水面から鼻先を出すことすら拒み、怯えるように身を寄せ合っている。
「両生類の皮膚は透過性が高く、空気中の毒素に敏感です。彼らが水底に逃げたということは……」
スカーレットは白衣のポケットから、リトマス試験紙のような短冊を取り出した。
それを空中でひらひらと振る。
「空気の成分が変わったということです」
白い紙が、じわりと薄いピンク色に変色した。
「魔素濃度は正常。ですが、微量な『揮発性有機化合物(VOC)』が検出されました」
「有機……化合物?」
「ええ。甘い、花の香りのような成分です。ですが、これは自然の花粉ではありません。エステル結合由来の、人工的に合成された芳香族化合物……」
スカーレットの脳内で、化学構造式が組み上がる。
それは、ただの香料ではなかった。神経系に作用する、危険な配列を含んでいる。
「……嫌な予感がします。私の鼻が、腐った事件の臭いを嗅ぎ取っています」
その時。
プシュッ、と魔道具の自動ドアが開き、レオンハルトが入ってきた。
彼は以前のような戦闘服ではなく、王族としての正装に身を包んでいる。だが、その表情は険しい。
「スカーレット。……着替えろ。仕事だ」
「事件ですか?」
「いや、外交だ。隣国ドラコニアからの使節団が到着した」
レオンハルトは忌々しげにネクタイを緩めた。
「父上(国王)が、歓迎の宴を開くそうだ。病床からわざわざ起き上がってな。……第零班も同席しろとの仰せだ」
「使節団……」
スカーレットはレオンハルトに歩み寄った。
そして、あと一歩というところで足を止め、ハンカチで鼻を覆って後ずさった。
「……殿下。近寄らないでください」
「は? 俺は風呂に入ったぞ。臭うか?」
「ええ、臭います。貴方の服に、微粒子が付着しています。……カエルたちが怯えている『毒』と同じ成分です」
スカーレットは、ピンセットでレオンハルトの袖口から、目に見えない粒子を採取した。
即座に顕微鏡へセットし、魔導モニターに拡大映像を映し出す。
そこに映った結晶構造を見て、彼女の顔色が変わった。
「……構造式特定。フェネチルアミン骨格に、類似オキシトシン基が結合している」
「どういう意味だ?」
「これは毒ガスではありません。『強力な媚薬』であり、『精神錯乱剤』です」
スカーレットは戦慄する。
「吸入すれば、脳の報酬系――ドーパミン回路がバグを起こし、対象への好意や依存心が強制的に書き換えられます。……いわゆる『惚れ薬』を、気体にして散布しているようなものです」
「なっ……!?」
「殿下。使節団の中に、強い香水をつけた人物はいませんか?」
レオンハルトの顔が青ざめる。
「……ああ。いる」
「どなたですか?」
「使節団の代表だ。……かつてこの国を追放された元男爵令嬢、ミエル・キャンディ」
その名前を聞いた瞬間、全ての点と線が繋がった。
スカーレットが断罪した、あの「嘘つきヒロイン」。
彼女が、隣国の力を借りて戻ってきたのだ。
「なるほど。彼女は魔法ではなく、化学兵器を纏って帰ってきたのですね」
スカーレットは棚を開け、準備していた「対・化学兵器用装備」を取り出した。
「ただの香水ではありません。地下のここまで漂ってきただけで、カエルがパニックになる濃度です。至近距離で吸えば、理性など一瞬で飛びますよ」
「……どうすればいい?」
「防御を固めます」
彼女は、パーティ用のドレスの裏地に「活性炭シート」を縫い付けたものをレイブンに用意させた。
さらに、扇子の中に仕込んだ「小型酸素ボンベ」を点検する。
「そして殿下。貴方にはこれを」
渡されたのは、小さな瓶に入った「ワセリン」だった。
「……これをどうするんだ?」
「鼻の穴の中に、たっぷりと塗ってください」
「は?」
「粘膜を油膜でコーティングし、成分の吸収を防ぎます。……格好悪いですが、洗脳されて国を売るよりはマシでしょう?」
レオンハルトは瓶を見つめ、深く、深くため息をついた。
だが、彼は迷わず指ですくい、鼻に塗りたくった。
「……分かった。塗ればいいんだろ、塗れば」
「賢明なご判断です」
準備は整った。
スカーレットは白衣を脱ぎ、活性炭入りのドレスに袖を通した。
「行きましょう、殿下。……『見えない毒』が蔓延する、死の舞踏会へ」
二人は、汚染区域と化した王宮の地上階へと向かう。
そこには、かつてない規模の「悪意」と「愛」が待ち受けているとも知らずに。




