第53話:新たな火種、隣国の影
ルミナス王国の東端、隣国ドラコニアとの国境に位置する検問所。
季節外れの激しい雷雨が、石造りの詰め所を叩きつけていた。
「まったく、こんな嵐の夜に誰が来るってんだ」
警備隊長は、湿気った薪が爆ぜる暖炉の前で、退屈そうにあくびを噛み殺した。
平和な田舎の検問所だ。普段なら行商人の馬車が数台通る程度。こんな豪雨の深夜に、国境を越えようとする物好きなどいるはずがない。
――そう思っていた。
闇の向こうから、重々しい車輪の音が響いてくるまでは。
「……おい、何か来るぞ」
部下の報告に、隊長は慌てて窓から外を覗いた。
稲光が走る一瞬、その光景が浮かび上がる。
泥濘んだ街道を、六頭立ての黒馬が引く巨大な馬車が、水飛沫を上げて疾走してくる。その装甲は黒檀のように黒く、扉には金色の紋章が刻まれていた。
双頭の竜。
大陸随一の軍事大国、ドラコニア王家の紋章だ。
「な、なんだ!? 外交使節団か? 事前の通達はなかったぞ!」
隊長は兜を被り直し、雨の中へと飛び出した。
馬車が検問所の前で停車する。その威圧感に、警備兵たちは思わず息を呑んだ。
「止まれ! 入国審査を行う! 身分証を……」
隊長が声を張り上げた、その時だった。
馬車の扉が、音もなく開かれた。
◇
ふわり、と。
豪雨の湿気と土の臭いを塗り潰すように、「甘い花の香り」が漂った。
それは強烈な芳香だった。嗅いだ瞬間に脳が痺れ、心臓が高鳴るような、抗いがたい魅力を秘めた香り。
そして、闇の中から一人の女性が姿を現した。
「……夜分に失礼いたします」
鈴を転がすような声。
ランタンの明かりに照らされたその姿を前に、隊長は言葉を失った。
純白の修道服(聖衣)を纏った、蜂蜜色の髪の美女。
かつてこの国を追放された男爵令嬢、ミエル・キャンディの面影がある。だが、彼女はもはや、以前のような「愛らしいだけの少女」ではなかった。
背中には、最新鋭の魔道具による光輪が浮遊し、神々しい光を放っている。その立ち居振る舞いは、慈愛に満ちた女神そのもの。
聖女。
誰もがそう呼ばずにはいられない圧倒的なカリスマ性が、彼女にはあった。
「あ……」
隊長の思考が停止する。
不審な入国者への警戒心など、一瞬で霧散した。
代わりに胸の奥から湧き上がってきたのは、熱病のような恋情と、ひれ伏したいという衝動。
(ああ……なんて美しい方だ。この方のためなら、死んでもいい)
瞳孔が開き、理性が麻痺していく。
これが、国を揺るがすことになる「嗅覚による洗脳」――高濃度フェロモンの最初の犠牲者だった。
「お役目、ご苦労様です」
ミエルは微笑み、馬車の中に手招きをした。
「カイ様。いらっしゃい」
彼女の傍らに、小さな影が寄り添う。
十歳くらいの少年だ。
絹のような金髪に、透き通るような碧眼。豪奢な服に身を包んでいるが、その表情はどこか虚ろで、人形のように生気がない。
だが、その顔立ちは――隊長も見覚えのある「ある人物」に瓜二つだった。
「こ、このお子様は……?」
「ご紹介します。カイ・フォン・アークライト様」
ミエルは恭しく告げた。
「現国王陛下が、身分違いの女性との間に遺されたご落胤……。このルミナス王国の、『正当なる王位継承者』です」
◇
王の隠し子。
それは、第一王子の王位継承が怪しくなっているこの国にとって、国体を揺るがす爆弾発言だった。
本来なら「不敬罪だ」「証拠を出せ」と拘束される場面だ。
だが、ミエルは流れるような動作で、一枚の羊皮紙を差し出した。
古びた紙片。その末尾には、茶色く酸化した「血判(血の拇印)」が押されている。
「これは、陛下が母君に託された認知書です」
「しょ、証拠の確認を……」
隊長は震える手で、検問用の「鑑定魔道具」を血判にかざした。
この世界において、血統は魔力で証明される。王家の血であれば、特定の波長に反応するはずだ。
――カッ!
血判が、眩い黄金色の光を放った。
虚空に浮かび上がるのは、天秤と剣を模したルミナス王家の紋章。
「なっ……!?」
隊長が膝をつく。周囲の兵士たちも一斉にひれ伏した。
間違いようがない。
魔法が、世界が、この血判を「本物」だと認めているのだ。
「ほ、本物だ……! 前国王陛下の血だ!」
「分かっていただけましたか?」
ミエルは聖母のような慈愛に満ちた声で言った。
「私たちは、正当な権利を求めて帰還しました。……通していただけますね?」
「は、はいッ! 直ちに開門を! 真の王子のお帰りだ!」
洗脳された隊長は、涙を流しながらゲートを開けた。
疑うことなどできない。魔法的な証拠と、脳を焼くようなフェロモンが、彼らの忠誠心を書き換えてしまったのだから。
馬車が再び動き出す。
国境を越え、王都へと続く道を、黒い馬車が疾走していく。
◇
馬車の中。
窓を閉め、外界と遮断された空間で、ミエルの表情が一変した。
聖女の仮面が剥がれ落ち、そこには妖艶で、昏い欲望に満ちた「悪女」の素顔があった。
「ふふっ。……ちょろいものね」
彼女は足を組み、虚ろな目の少年カイの髪を乱暴に撫でた。
「見たでしょう、カイ? あいつらの間抜けな顔。貴方はもう、どこの誰とも知らない貧民街の孤児じゃないの。今日から『王子様』よ」
「……はい、ミエル様」
少年は怯えたように頷く。
ミエルは窓の外、王都の方角を睨みつけた。その瞳には、かつて自分を断罪し、国外追放へと追いやった者たちへの、煮えたぎるような復讐心が渦巻いている。
「待っていなさい、スカーレット・ヴァレンタイン」
彼女は赤い唇を歪めた。
「前は『小手先の嘘』だと笑ったわね。証拠がないと馬鹿にしたわね。……なら今度は、『国ごとの真実(魔法)』で貴女を押し潰してあげる」
血判は本物だ。鑑定魔法もパスした。
そして何より、国民全員がミエルを愛し、カイを王だと信じ込んだ時――「科学的な偽造の証拠」などに何の意味があるだろうか?
「科学? ふふっ。……愛の前では、理屈なんて無力なのよ」
最強の「嘘」を纏った怪物が、牙を剥いて帰還する。
◇
翌朝。王宮地下、第零班ラボ。
昨夜の嵐が嘘のような、穏やかな朝だった。
スカーレットは、いつものように白衣を羽織り、壁際の水槽を点検していた。
「……?」
彼女の眉が寄る。
水槽の中で飼育している「沼ウシガエル」たちが、異常な行動をとっていた。
普段はのんびりしている彼らが、水槽の壁に何度も頭を打ち付け、暴れているのだ。あるいは、水底の泥の中に潜り込み、必死に鼻を隠そうとしている。
「環境測定用のカエルがパニック状態……。水質は正常、魔素濃度も異常なし」
スカーレットは試験紙を空中にひらつかせた。
紙の色が、わずかにピンク色に変色する。
「……気圧の変化? いいえ。空気に『何か』が混じり始めましたね」
彼女は鼻をひくつかせた。
換気システムのフィルター越しでも感じる、微かな、しかし不快な甘い香り。
生物の本能に直接作用するような、危険な粒子の気配。
「嫌な予感がします。……私の『鼻』が、腐った事件の臭いを嗅ぎ取っています」
その時。
王宮の上層から、来賓の到着を告げる鐘が高らかに鳴り響いた。
ゴーン、ゴーン。
それは、国を二分する最後の戦いの始まりを告げる、弔鐘のようだった。
「行きましょう、レイブン、テオ。……新しい検体が到着したようです」
スカーレットは眼鏡の位置を直し、振り返った。
その背後で、黒板に貼られた王都の地図が、朝日を受けて赤く染まっていた。




