第52話:科学捜査の夜明け
王都の下層区「シャドウ・ロウ」。
法の光が届きにくいこの薄暗い吹き溜まりにある酒場は、今夜も荒くれ者たちで賑わっていた。
だが、その話題はいつもの金儲けや女の話ではない。皆、声を潜めて「ある噂」を囁き合っていた。
「おい、聞いたか? 『透明な切り裂き魔』の末路を」
「ああ……。広場で晒し者にされたってな」
泥棒稼業の男が、ジョッキを震える手で握りしめる。
「騎士団長の息子だったらしいが、見るも無残な姿だったそうだ。全身がドス黒い紫色に染まって、顔は腫れ上がり……まるで『紫の怪物』だったとよ」
「ひぃっ、祟りか?」
「いや、違う。『地下の魔女』の呪いだ」
男は周囲を警戒しながら、さらに声を低くした。
「王宮の地下に、魔法の通じないヤベェ女がいるらしい。見えない相手だろうが、魔力を消そうが、関係ねえ。現場に髪の毛一本、汗一滴でも落としたら最後……その『カケラ』から呪いをかけて、居場所を特定するんだと」
「マジかよ。それじゃあ、逃げ場がねえじゃねえか」
酒場の空気が凍りつく。
これまで、犯罪者たちにとって「魔法」は便利な道具だった。姿を消し、鍵を開け、証拠を燃やせば、完全犯罪は容易だった。
だが、その常識が覆されたのだ。
「……しばらく、デカいヤマは控えた方がいいな」
「ああ。指の跡一つ残せねえなんて、割に合わなすぎる」
この日を境に、王都の犯罪発生率は劇的に低下することとなる。
正義のヒーローが現れたからではない。「捕まるのが怖い」という原初的な恐怖が、犯罪者たちを萎縮させたのだ。
後に『スカーレット効果』と呼ばれる、科学捜査による抑止力の誕生である。
◇
一方、噂の震源地である王宮地下三階。
特別捜査局「第零班」のラボは、劇的な変貌を遂げていた。
かつて「ゴミ捨て場」と蔑まれていた陰気な石造りの部屋は、今は見る影もない。
今回の事件解決の功績により、国王から莫大な特別予算が下りたのだ。
「……素晴らしい」
スカーレットは、真新しい白衣の袖を通しながら、満足げにラボを見渡した。
壁は防塵加工が施され、天井には最新鋭の「魔導換気システム」が設置されている。高性能な風魔法のフィルターを通した空気は、地上の王宮よりも清浄で、無菌室に近いレベルを維持していた。
さらに、部屋の奥にはガラス張りの区画が増設されている。
『王宮筆頭硝子技師 テオ・アームストロング工房』。
金色のプレートが輝くその部屋で、テオが真新しいバーナーを調整していた。
「どうだ、テオ。使い心地は」
「最高です殿下! 火力が安定していて、これならどんな歪なフラスコでも作れます!」
スラム出身の少年の顔には、かつての卑屈さはない。自分の技術が国を救ったという自信が、彼を一人前の職人へと成長させていた。
「警備体制も強化しました」
報告するのは、警備主任の肩書きを得たレイブンだ。
彼女の装備も一新されている。ミスリル製のワイヤーを仕込んだ手袋に、衝撃吸収の魔導ベスト。科学捜査官を守るための、プロフェッショナルな装備だ。
「これなら、次は透明人間が来ても返り討ちにできます」
「頼もしいわね。……さて」
スカーレットは、執務エリアの壁に飾られた「額縁」を見上げた。
そこには、感謝状や勲章ではなく――「アラン・ド・ノワールのDNA鑑定書」が飾られていた。
二列の縞模様が並ぶ、あの羊皮紙だ。
「何度見ても美しい幾何学模様です。勝利のトロフィーに相応しい」
「……悪趣味なインテリアだ」
執務机でコーヒーを飲んでいたレオンハルトが、呆れたように苦笑する。
だが、その表情は穏やかだった。
騎士団長ガレスの失脚により、彼を敵視していた勢力は一掃された。第零班はもはや「窓際」ではなく、王宮内で一目置かれる重要機関へと昇格しつつある。
「環境は整いました。これで、より高度な実験が可能になります」
スカーレットは、分厚い企画書をレオンハルトの机に置いた。
ドンッ、と重い音がする。
「なんだ、これは」
「次なる計画書です」
表紙には『王国民DNAデータベース化計画』と記されていた。
「事件が起きてから証拠を集めるのでは非効率です。出生時、あるいは成人時に、全国民からDNAサンプルを採取し、王宮で一括管理します」
「……は?」
「そうすれば、現場に髪の毛が一本落ちていれば、データベースと照合して数秒で犯人が特定できます。迷宮入り事件はゼロになり、冤罪も消滅する。完璧な治安維持システムです」
スカーレットは目を輝かせて力説する。
だが、レオンハルトの顔色は青ざめていく。
「……却下だ」
「なぜです? 予算なら……」
「金の問題じゃない! そんなことをすれば、貴族たちから暴動が起きるぞ!」
レオンハルトは頭を抱えた。
「いいかスカーレット。この国は……いや、貴族社会というのは、清廉潔白な人間ばかりじゃない。表沙汰にできない『隠し子』や、『血統の秘密』を抱えている家が山ほどあるんだ」
「……ああ。不倫や托卵ですか」
「言葉を選べ。……とにかく、全員のDNAを丸裸にするなんて、パンドラの箱を開けるようなものだ。国が崩壊しかねん」
絶対的な正義と効率を求める科学者と、社会的な混沌を避ける為政者。
二人の視点は異なるが、だからこそブレーキ役として機能していた。
「非効率ですね。真実こそが最大の利益なのに」
「人間には、知らない方が幸せな真実もあるんだよ」
レオンハルトはコーヒーを啜り、ふと遠い目をした。
「だが……お前の技術は、確かに諸刃の剣だ」
「剣?」
「ああ。犯罪捜査だけじゃない。その気になれば、『王位継承権』という、この国の根幹さえも揺るがすことができる」
血統。
魔法王国において、魔力と並んで重視される「血の繋がり」。
それが、科学によって「ただの塩基配列のデータ」として白日の下に晒された時、何が起こるか。
「血統とは、所詮はタンパク質の設計図に過ぎません。王も平民も、生物学的には九九・九パーセント同じです」
「……その言葉、父上(国王)の前では絶対に言うなよ」
スカーレットは肩をすくめる。
二人はまだ知らない。
その「血統の嘘」を巡る、国を二分する最大の事件が、すぐそこまで迫っていることを。
◇
夕刻。
ラボの採光窓から、オレンジ色の夕日が差し込んでいる。
スカーレットは、新調された魔導顕微鏡を覗きながら、幸せそうに高級チョコレートを齧っていた。
レオンハルトは、そんな彼女を横目に見ながら書類を片付ける。
「……まあ、悪くない日々だ」
地下室の空気は、以前よりもずっと軽く、そして甘い香りがした。
科学という「新しい光」が、魔法王国の闇を少しずつ照らし始めている。
だが、光が強くなれば、落ちる影もまた濃くなる。
王都の東――隣国ドラコニアの方角から、不穏な黒い雲が湧き上がっていた。
束の間の平和は、終わりを告げようとしている。
最強の「嘘」を纏った聖女が、国境を越えようとしていた。




