第51話:病室での約束
王宮の一角にある特別医務室。
そこは、薬品と清潔なリネンの香りに満ちていた。
普通の貴族令嬢であれば、鼻をつまみたくなるような消毒液の臭い。だが、スカーレットにとっては、きらびやかな舞踏会よりも遥かに心が落ち着く「ホーム」の香りだった。
白いカーテンで仕切られたベッドの上で、スカーレットは大人しく座っていた。
担当医が、彼女の首筋に貼られたガーゼを確認し、安堵の息を吐く。
「……傷は浅いですね。あと数ミリ深ければ、頸動脈に達していました。本当に運が良かった」
「運ではありません、ドクター」
スカーレットは即座に訂正した。
「確率論です。犯人は私を『解剖』したがっていた。恐怖と苦痛を長引かせるために、意図的に急所を外したのです。即死攻撃が来る確率は、計算上五パーセント未満でした」
「……はあ」
医師は引きつった笑みを浮かべた。
ナイフを突きつけられた状況で、そんな計算をしていたというのか。
彼は「やはりこの令嬢、頭のネジが数本飛んでいる」という顔をして、逃げるように退室していった。
静寂が戻る。
スカーレットは窓の外を見た。空はすっかり白み、小鳥のさえずりが聞こえる。
嵐のような夜が明けたのだ。
シャッ。
カーテンが開く音がした。
「……殿下?」
入ってきたのは、レオンハルトだった。
漆黒の戦闘服は脱ぎ捨てられ、簡素なシャツとズボンに着替えている。全身に受けた斬撃は、高位治癒魔法によって塞がっていた。
だが、その顔色は紙のように白く、目の下には濃い隈が刻まれている。
「スカーレット……」
「殿下。貴方の方が重傷です。失血量は推定一〇〇〇ミリリットルを超えていたはず。造血剤を飲んで安静にしているべきでは?」
スカーレットは眼鏡の位置を直し、彼をスキャンする。
(指先の微細な震え。浅い呼吸。……これは肉体的な痛みによるものではない)
(PTSD――心的外傷後ストレス障害に近い、急性のショック状態)
あの傲岸不遜な第二王子が、見ていられないほどに消耗していた。
彼はスカーレットの言葉など聞こえていないかのように、ふらりとベッドに歩み寄る。
そして。
「……っ」
何も言わず、衝動的にスカーレットを抱きしめた。
強く。
しかし、壊れ物を扱うように優しく。
「殿下……?」
スカーレットは硬直する。
広い胸板に顔が埋まる。彼の心臓が、早鐘を打っているのが聞こえた。
ドクン、ドクン、と痛いくらいに速い。
「酸素飽和度が下がります。離してください」
「……嫌だ」
レオンハルトの声は、子供のように震えていた。
「少しだけ、このままでいさせてくれ」
彼はスカーレットの肩に顔を埋め、深々と息を吸い込んだ。薬品の臭いと、彼女自身の体臭を確かめるように。
「……生きた心地がしなかった」
絞り出すような独白。
「母上が死んだ時と同じだ。大切なものが、俺の手の届かない場所で、理不尽に奪われる感覚……。あの無力感だけは、二度と味わいたくなかった」
「……」
「もし君が死んでいたら……俺はアランだけでなく、騎士団も、この国さえも焼き払っていたかもしれない」
それは、冷徹な王子が見せる、初めての弱音だった。
彼は恐れていたのだ。
スカーレットを失うことを。自分の半身をもぎ取られるような喪失を。
その恐怖が、彼を修羅に変え、そして今、震える一人の青年に戻させていた。
(……非合理だわ)
スカーレットは、彼の背中に手を回そうとして、躊躇った。
(事件は解決し、安全は確保された。アランは拘束され、脅威は排除された。なのに、彼の交感神経はまだ『戦闘中』だと叫んでいる)
(これが……『愛着』による分離不安?)
科学的には、過剰なストレス反応に過ぎない。
だが、その温かさは、スカーレットの胸の奥にある、名前のない感情を揺さぶった。
彼女は、迷いながらも、そっと彼の手を握り返した。
「……殿下」
スカーレットは、不器用に彼の手の甲をポンポンと叩いた。一定のリズムで。
「私は生きています」
「……ああ」
「質量があり、体温があり、脈拍も正常値です。ここに物理的に『在る』。……それが唯一の事実です」
慰めの言葉としては、あまりに即物的だ。
だが、レオンハルトにはそれが何よりの薬だった。
幽霊でも幻でもない。確かな質量を持った彼女が、ここにいる。
「……そうだな。君は、ここにいる」
レオンハルトは顔を上げた。
その瞳は少し赤く、潤んでいたが、いつもの強い光が戻りつつあった。
彼はスカーレットの肩を掴み、真剣な眼差しで射抜く。
「スカーレット。約束してくれ」
「何をですか?」
「もう二度と、俺の目の届かないところへ行くな」
それは命令ではなく、懇願だった。
「君は俺の『頭脳』だ。……頭を失くして生きていける人間はいない」
普通の令嬢なら、「はい、ずっとおそばにいます」と答えて、感動的な口づけを交わす場面だろう。
だが、スカーレットはスカーレットだった。
彼女は一度視線を外し、眼鏡をかけ直した。そして、真面目な顔で、報告書を読み上げるように答えた。
「承知しました。今回の事例を分析した結果、私の単独行動はリスクが高すぎると判断しました」
彼女は指で四角い枠を作るような仕草をした。
「よって、私の座標は常に、殿下の**『観測範囲(視界)』**の中に固定することとします」
「……観測範囲?」
「ええ。貴方が私を見ている限り、シュレーディンガーの猫のように生死が不確定になることはありませんから」
あまりに色気のない、理屈っぽい誓い。
レオンハルトは一瞬呆気にとられ――そして、吹き出した。
「……ふッ、ははは!」
彼は腹を抱えて笑った。
心底可笑しそうに、そして安堵したように。
「色気のない答えだ。……だが、それでいい。それが君だ」
レオンハルトは、再び彼女を抱き寄せた。今度は、もっと穏やかに。
「契約更新だ、スカーレット。……俺の目から、一秒たりとも離れるなよ」
「了解しました(ラジャー)。……善処します」
窓の外から、朝の光が差し込んでくる。
その光は、傷ついた二人を優しく包み込んだ。
まだ恋人ではない。けれど、契約以上の何かで結ばれた「共犯者」たちの絆。
科学捜査の夜明けと共に、二人の関係もまた、新しいフェーズへと移行していた。




