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婚約破棄の現場から失礼します。その「冤罪」、科学捜査(フォレンジック)で論破させていただきます 〜前世科捜研の私が、魔法世界の完全犯罪をDNA鑑定で暴くまで〜  作者: ヲワ・おわり
第11章:透明な切り裂き魔と『螺旋の遺伝子』

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第51話:病室での約束

 王宮の一角にある特別医務室。

 そこは、薬品と清潔なリネンの香りに満ちていた。

 普通の貴族令嬢であれば、鼻をつまみたくなるような消毒液エタノールの臭い。だが、スカーレットにとっては、きらびやかな舞踏会よりも遥かに心が落ち着く「ホーム」の香りだった。


 白いカーテンで仕切られたベッドの上で、スカーレットは大人しく座っていた。

 担当医が、彼女の首筋に貼られたガーゼを確認し、安堵の息を吐く。


「……傷は浅いですね。あと数ミリ深ければ、頸動脈に達していました。本当に運が良かった」

「運ではありません、ドクター」


 スカーレットは即座に訂正した。


「確率論です。犯人は私を『解剖』したがっていた。恐怖と苦痛を長引かせるために、意図的に急所バイタルを外したのです。即死攻撃が来る確率は、計算上五パーセント未満でした」

「……はあ」


 医師は引きつった笑みを浮かべた。

 ナイフを突きつけられた状況で、そんな計算をしていたというのか。

 彼は「やはりこの令嬢、頭のネジが数本飛んでいる」という顔をして、逃げるように退室していった。


 静寂が戻る。

 スカーレットは窓の外を見た。空はすっかり白み、小鳥のさえずりが聞こえる。

 嵐のような夜が明けたのだ。


 シャッ。

 カーテンが開く音がした。


「……殿下?」


 入ってきたのは、レオンハルトだった。

 漆黒の戦闘服は脱ぎ捨てられ、簡素なシャツとズボンに着替えている。全身に受けた斬撃は、高位治癒魔法によって塞がっていた。

 だが、その顔色は紙のように白く、目の下には濃い隈が刻まれている。


「スカーレット……」

「殿下。貴方の方が重傷です。失血量は推定一〇〇〇ミリリットルを超えていたはず。造血剤を飲んで安静にしているべきでは?」


 スカーレットは眼鏡の位置を直し、彼をスキャンする。


(指先の微細な震え。浅い呼吸。……これは肉体的な痛みによるものではない)

(PTSD――心的外傷後ストレス障害に近い、急性のショック状態)


 あの傲岸不遜な第二王子が、見ていられないほどに消耗していた。

 彼はスカーレットの言葉など聞こえていないかのように、ふらりとベッドに歩み寄る。


 そして。


「……っ」


 何も言わず、衝動的にスカーレットを抱きしめた。

 強く。

 しかし、壊れ物を扱うように優しく。


「殿下……?」


 スカーレットは硬直する。

 広い胸板に顔が埋まる。彼の心臓が、早鐘を打っているのが聞こえた。

 ドクン、ドクン、と痛いくらいに速い。


「酸素飽和度が下がります。離してください」

「……嫌だ」


 レオンハルトの声は、子供のように震えていた。


「少しだけ、このままでいさせてくれ」


 彼はスカーレットの肩に顔を埋め、深々と息を吸い込んだ。薬品の臭いと、彼女自身の体臭を確かめるように。


「……生きた心地がしなかった」


 絞り出すような独白。


「母上が死んだ時と同じだ。大切なものが、俺の手の届かない場所で、理不尽に奪われる感覚……。あの無力感だけは、二度と味わいたくなかった」

「……」

「もし君が死んでいたら……俺はアランだけでなく、騎士団も、この国さえも焼き払っていたかもしれない」


 それは、冷徹な王子が見せる、初めての弱音だった。

 彼は恐れていたのだ。

 スカーレットを失うことを。自分の半身をもぎ取られるような喪失を。

 その恐怖が、彼を修羅に変え、そして今、震える一人の青年に戻させていた。


(……非合理だわ)


 スカーレットは、彼の背中に手を回そうとして、躊躇った。


(事件は解決し、安全は確保された。アランは拘束され、脅威は排除された。なのに、彼の交感神経はまだ『戦闘中』だと叫んでいる)

(これが……『愛着アタッチメント』による分離不安?)


 科学的には、過剰なストレス反応に過ぎない。

 だが、その温かさは、スカーレットの胸の奥にある、名前のない感情を揺さぶった。

 彼女は、迷いながらも、そっと彼の手を握り返した。


「……殿下」


 スカーレットは、不器用に彼の手の甲をポンポンと叩いた。一定のリズムで。


「私は生きています」

「……ああ」

「質量があり、体温があり、脈拍も正常値です。ここに物理的に『在る』。……それが唯一の事実です」


 慰めの言葉としては、あまりに即物的だ。

 だが、レオンハルトにはそれが何よりの薬だった。

 幽霊でも幻でもない。確かな質量を持った彼女が、ここにいる。


「……そうだな。君は、ここにいる」


 レオンハルトは顔を上げた。

 その瞳は少し赤く、潤んでいたが、いつもの強い光が戻りつつあった。

 彼はスカーレットの肩を掴み、真剣な眼差しで射抜く。


「スカーレット。約束してくれ」

「何をですか?」

「もう二度と、俺の目の届かないところへ行くな」


 それは命令ではなく、懇願だった。


「君は俺の『頭脳』だ。……頭を失くして生きていける人間はいない」


 普通の令嬢なら、「はい、ずっとおそばにいます」と答えて、感動的な口づけを交わす場面だろう。

 だが、スカーレットはスカーレットだった。

 彼女は一度視線を外し、眼鏡をかけ直した。そして、真面目な顔で、報告書を読み上げるように答えた。


「承知しました。今回の事例を分析した結果、私の単独行動はリスクが高すぎると判断しました」


 彼女は指で四角い枠を作るような仕草をした。


「よって、私の座標は常に、殿下の**『観測範囲(視界)』**の中に固定することとします」

「……観測範囲?」

「ええ。貴方が私を見ている限り、シュレーディンガーの猫のように生死が不確定になることはありませんから」


 あまりに色気のない、理屈っぽい誓い。

 レオンハルトは一瞬呆気にとられ――そして、吹き出した。


「……ふッ、ははは!」


 彼は腹を抱えて笑った。

 心底可笑しそうに、そして安堵したように。


「色気のない答えだ。……だが、それでいい。それが君だ」


 レオンハルトは、再び彼女を抱き寄せた。今度は、もっと穏やかに。


「契約更新だ、スカーレット。……俺の目から、一秒たりとも離れるなよ」

「了解しました(ラジャー)。……善処します」


 窓の外から、朝の光が差し込んでくる。

 その光は、傷ついた二人を優しく包み込んだ。

 まだ恋人ではない。けれど、契約以上の何かで結ばれた「共犯者」たちの絆。


 科学捜査の夜明けと共に、二人の関係もまた、新しいフェーズへと移行していた。

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