第49話:動かぬ証拠、Y染色体の証明
地下廃墟の床は、水と泥、そしてアランの傷から流れた血で汚れていた。
その中央で、騎士たちに取り押さえられているのは、見るも無惨な「紫色の物体」だ。
アラン・ド・ノワール。
全身を特殊試薬で染め上げられ、顔はレオンハルトの拳によってボコボコに腫れ上がっている。かつての端正な貴公子の面影は微塵もない。
だが、彼の口だけはまだ元気だった。
「離せ! 俺は被害者だ!」
アランは泥にまみれながら喚き散らす。
「通り魔だ! いきなり襲われて、変な薬をかけられたんだ! 俺は何もしていない!」
「まだ言うか。現行犯だぞ」
レオンハルトが呆れ果てたように見下ろすが、アランは怯まない。
彼にはまだ、すがりつくべき最後の砦――「権力」があったからだ。
「証拠はあるのかよ! 俺が誘拐した証拠も、殺した証拠もねえだろ!」
「……」
「第零班が俺をハメたんだ! 親父に言いつけてやる! 騎士団長の息子をこんな目に遭わせて、タダで済むと思うなよ! 全員処刑してやる!」
見苦しいほどの虚勢。
だが、それはこの国においては有効な武器だった。「疑わしきは罰せず」ではなく、「権力者は罰せず」がまかり通る社会だからだ。
証拠がなければ、騎士団長の政治力で揉み消される可能性は高い。
スカーレットは、ボロボロに汚れたドレスの埃を払いながら、その様子を冷ややかに眺めていた。
「……見苦しいですね」
彼女は一歩、アランに近づく。
「貴方のその全身の紫色は、貴方がそこに『いた』という物理的な証拠です。言い逃れはできません」
「色がなんだ! ただの汚れだ! 俺が人を殺した証拠にはならねえ!」
「そうですか。では――」
スカーレットは懐に手を入れた。
防水ポーチの中から取り出したのは、一枚の羊皮紙。
水攻めの中でも、乱闘の中でも、彼女が命がけで守り抜いた「切り札」だ。
「貴方が殺した証拠を提示しましょう」
◇
テオがランタンを掲げる。
薄暗い地下室に、スカーレットが広げた羊皮紙が照らし出された。
そこに描かれているのは、無数の黒い横線が並んだ、二列の幾何学模様。
「なんだ、それは。……お絵描きか?」
アランが鼻で笑う。
以前、彼の父ガレスが「妄想日記」と嘲笑って燃やしたものと同じ図面だ。
「これは『DNA鑑定書』です」
スカーレットは、テオのランタンの光を指し棒代わりに、図面を解説する。
「上段の模様を見てください。これは第三の殺人現場、何もない空間に残されていた『透明な髪の毛』から抽出した、生命の設計図です」
「……」
「そして下段。これは、貴方の私物である『櫛』から採取した、貴方の髪の毛のデータです」
スカーレットは、二つの模様を指でなぞった。
「ご覧なさい。線の位置、太さ、間隔……すべての縞模様が、完璧に一致しています」
それは、誰の目にも明らかな「同一」の図形だった。
「これが意味するのは一つ。現場にいた透明人間と、貴方は、生物学的に同一人物であるという逃れられない事実です」
「ハッ!」
アランは嘲笑した。
「馬鹿かお前は。そんな線、お前が適当に描いただけだろうが!」
「……」
「誰が信じるんだ? そんな紙切れ一枚で! 俺の髪だと言うなら、親父がそれを否定してくれるさ! ノワール家は結束が固いんだよ!」
彼は理解していない。科学の冷徹さを。
権力や口裏合わせで、捻じ曲げられるものではないことを。
「……そう来ると思っていました」
スカーレットは、もう一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、また別の縞模様が描かれている。
「ですから、お父様(騎士団長)のデータも用意しておきました」
「は……?」
「以前、レオンハルト殿下が騎士団長に詰め寄った際、その手から皮膚片を採取させていただきました」
レオンハルトがニヤリと笑う。
騎士団に殴り込んだ際、彼はただ暴れただけではなかったのだ。スカーレットの指示通り、ガレスと接触し、サンプルを回収していたのである。
「こ、今度は親父の図か? それがどうした!」
「男性の遺伝子には、特有のルールがあります」
スカーレットは、二枚の鑑定書を並べた。
「性別を決める『Y染色体』。この情報の配列は、父親から息子へ、ほぼそのままの形で受け継がれます。いわば、血筋の刻印です」
彼女は、犯人のデータと、騎士団長のデータを指差す。
特定のエリアの縞模様が、完全に一致していた。
「見てください。現場に残された『透明な髪の毛』のY染色体パターンは、騎士団長ガレスのものと完全一致しています」
「な……」
「つまり、現場の髪の持ち主は、間違いなく『騎士団長と血の繋がった男性』であると、科学的に証明されました」
アランの顔から、嘲笑が消えた。
意味が分からなくても、スカーレットの放つ言葉の重みが、真綿のように首を絞めてくるのを感じたからだ。
「さて、アラン様。詰み(チェックメイト)です」
スカーレットは、紫色の男を見下ろして告げた。
「この髪の持ち主は、ノワール家の男です。もし貴方が『俺の髪じゃない』と言い張るなら……残る容疑者は一人しかいませんね?」
彼女は、悪魔的な二択を突きつける。
「貴方は、『父上(騎士団長)こそが連続殺人犯だ』と主張しますか?」
◇
「あ……あぁ……」
アランの唇が震えた。
全身の紫色の上からでも分かるほど、顔色が青ざめていく。
逃げ道がない。
「俺じゃない」と言えば、それは「親父が犯人だ」と言うことになる。
尊敬し、畏怖し、権力の源泉である父親を殺人犯呼ばわりすることは、彼にはできない。それをすれば、彼は家を失い、破滅する。
だが、認めれば自分が捕まる。
「そ、そんな……親父が犯人なわけがない……」
「では、貴方ですね」
スカーレットは容赦なく畳み掛ける。
「科学(DNA)は嘘をつきません。犯人は貴方か、貴方のお父様か、どちらかしかあり得ないのです」
「ち、違う……俺は……」
「どちらですか? 今ここで、騎士団長を告発しますか?」
追い詰められたネズミのように、アランの目が泳ぐ。
自身の「透明化」という絶対の安全圏は、紫色の試薬で剥がされた。
そして今、精神的な安全圏である「親の権威」も、科学のロジックによって封鎖された。
ガタガタと、アランの体が震え出す。
そして――。
「……お、俺だ」
彼は、糸が切れたように首を垂れた。
「俺がやった……。親父は関係ない……」
自白。
その瞬間、彼の「透明人間」としての万能感も、貴族としてのプライドも、粉々に砕け散った。
「……確保」
レオンハルトが短く告げる。
騎士たちがアランを担ぎ上げた。紫色の怪物は、もはや抵抗する気力もなく、ぐったりとしている。
「連行しろ。……これより王宮へ戻り、騎士団長の前でこの感動的な『親子鑑定』を披露してやる」
「ええ。息子を守るために証拠を隠滅した父親が、息子の罪を証明する『血』を提供していたとは……皮肉な話ですね」
スカーレットは羊皮紙を大切にポーチにしまった。
これが、トドメの一撃になる。
一行が地下の迷宮から地上に出ると、東の空が白み始めていた。
昨夜の嵐は去り、澄んだ朝の光が王都を照らしている。
「……空気が美味しいですね」
スカーレットは大きく息を吸い込んだ。
下水と血の臭いが消え、代わりに朝露の香りがする。
「腐敗臭が消えました。……さあ、行きましょう殿下」
「ああ」
レオンハルトとスカーレットは並んで歩き出す。
向かう先は王宮。
腐った権力を断罪するための、最後の法廷へ。




