第48話:特殊試薬「プロテイン・ステイン」
テオの投げたビンがアランに当たり、割れて水が飛び散る。
アランの声が、嘲笑と共に響く。
「ハッ! ヤケクソか? 水を浴びせれば見えるとでも? 無駄だ、俺のスキルは雨だって透過するんだよ!」
ビンが割れアランにかかったそれは水ではなかった。
強烈な薬品臭を放つ、無色透明な液体。
スプリンクラーのように降り注ぐ液体の雨が、狭い部屋全体を濡らし、アラン(透明状態)もレオンハルトも、そしてスカーレットさえもずぶ濡れにする。
「ぐっ、なんだ!?」
アランの狼狽する声。
だが、彼はすぐに持ち直す。
「ハハハ! 驚かせやがって! 水攻めのつもりか!?」
彼の姿は、依然として透明なままだ。
液体が滴る音はすれど、その雫さえも彼の体に触れた瞬間、視認できなくなっている。
「悪くないアイデアだが、無駄だ! 俺のユニークスキル【完全隠蔽】は、体表面に『認識阻害の膜』を張る! 水に濡れようが、泥を被ろうが、膜の内側にあるものは全て透明化するんだよ!」
それが、彼が最強の暗殺者たる所以だった。
光学的迷彩に加え、付着物まで同化して消してしまう概念的な隠蔽。ペンキをかけようが小麦粉を撒こうが、一瞬で「見えない汚れ」に変わるだけだ。
「無駄な抵抗だ! 死ね、レオンハルト!」
アランは勝利を確信し、再び殺意の刃を構えて踏み込んだ。
レオンハルトは血を流し、満身創痍だ。水浸しになった足場では、回避もままならない。
絶体絶命。
――しかし。
その光景を、床に横たわったまま見つめるスカーレットの瞳だけは、冷徹に透き通っていた。
「……3」
彼女は、濡れた髪が頬に張り付くのも気にせず、静かにカウントダウンを始めた。
「2、1」
アランの刃が、レオンハルトの喉元に迫る。
その瞬間。
「反応開始」
スカーレットは冷酷に告げた。
「アラン様。貴方は魔法を過信しすぎて、『物質の化学結合』を甘く見ています」
◇
「……あ?」
アランの足が、ピタリと止まった。
違和感。
液体を浴びた全身の皮膚が、チリチリと焼けつくような熱を持ち始めたのだ。
痛みではない。だが、体の内側から何かが湧き上がってくるような、生理的な不快感。
「なんだ、これ……熱い……?」
彼は自分の手を見た。
そこには何も無いはずだった。透明な手、透明なナイフ。
だが――色が、滲み出した。
じわり。
何もない空間に、毒々しい「赤紫色」の染みが浮かび上がる。
最初は指先。次に手の甲。
それは見る見るうちに広がり、腕を駆け上がり、顔を侵食し、全身へと伝播していく。
「う、わぁっ!?」
アランが悲鳴を上げる。
鏡がなくとも分かる。自分の体が、どす黒い紫色に染まり始めていることが。
透明だったはずの怪物が、見るも無惨な「紫色の濡れ鼠」へと変貌していく。
「な、なんだこれ!? 色が、取れねえ!?」
彼はパニックになり、顔や服を必死に擦った。
だが、拭えば拭うほど色は濃くなり、皮膚の奥深くまで浸透していく。まるで呪いのように、その色は彼を捕らえて離さない。
「水ではありません」
スカーレットが、拘束されたまま身体を起こした。
彼女は自分にかかった液体を見ても、眉一つ動かさない(彼女の服は防水加工されている)。
「それは私が調合した『ニンヒドリン溶液(の強化版)』です」
「ニン……何だと!?」
「タンパク質のアミノ基に反応し、強固な結合を作って発色する試薬です。通常は指紋の検出などに使われますが……濃度を高めれば、全身を染めるマーカーになります」
スカーレットは、紫色のマヌケな姿になった殺人鬼を指差した。
「貴方のスキルが透明化しているのは、あくまで『光の反射』です。ですが、そこに存在する『皮膚(タンパク質)』そのものまでは消せません」
「だ、だから何だ! 俺のスキルは汚れも隠すはずだ!」
「ええ。ですがこれは汚れ(付着)ではなく、『化学変化(変質)』です」
彼女はニヤリと笑った。マッドサイエンティストの笑みだ。
「この反応は、貴方の認識阻害の膜を透過し――貴方の皮膚そのもので起きているのです。貴方が皮膚をすべて剥ぎ取らない限り、その色は消えません」
アランは絶句した。
魔法の理屈ではない。物質としての「変色」。
透明人間がペンキを被ったのなら、ペンキごと透明にすればいい。だが、透明人間自身が「紫色人間」に変質してしまったら?
隠しようがない。
「皮膚の代謝が終わるまで……約二週間、貴方はその『紫色の怪物』のままです」
「あ……あぁ……」
「透明人間の魔法は解けました。そこにいるのは、ただの派手な不審者ですね」
◇
「……見えたぞ」
低く、地を這うような声が響いた。
レオンハルトだ。
彼は顔に浴びた液体を拭い、濡れた前髪をかき上げた。
その下から現れた瞳は、獰猛な肉食獣のように輝いている。
「よくやった、スカーレット。……これだけ目立てば、目をつぶっていても斬れる」
レオンハルトはゆっくりと長剣を構え直した。
先ほどまでの、見えない敵に対する焦りや迷いは微塵もない。あるのは、獲物を前にした絶対的な強者の余裕のみ。
「ひっ……!」
アランが後ずさる。
本能が理解した。勝てない、と。
見えなければ最強の暗殺者。だが、見えてしまえば、ただの人殺し。
歴戦の猛者であり、国一番の剣士であるレオンハルトに、正面から挑んで勝てる道理など万に一つもない。
「く、来るな! 俺は……!」
アランは必死に魔力を練り、透明化しようとする。
だが、紫色は消えない。
空中に、紫色の人間が浮いているだけだ。余計に目立つ。
ダンッ!
レオンハルトが床を蹴った。
その速度は、先ほどまでの防戦一方の動きとは次元が違っていた。
音速を超えた踏み込み。
「たっぷりと教えてやる。……『見える痛み』というやつをな」
銀閃が走る。
ズバァッ!!
「ぎゃあああああッ!?」
アランの絶叫が地下室に木霊する。
彼が持っていたナイフが弾き飛ばされ、右肩から鮮血が噴き出した。
だが、レオンハルトは止まらない。
「遅い」
返す刀で、左足の太腿を切り裂く。
アランが崩れ落ちる。
「逃げるな。まだ四肢が残っているぞ」
レオンハルトは剣の腹でアランを殴り飛ばし、壁に叩きつけた。
ドォン、と重い音がして、アランが紫色のボールのように跳ねる。
「が、はッ……ゆる、して……」
「許す? 誰が?」
レオンハルトは、アランの顔面――紫色の頬を、軍靴の底で踏みつけた。
「スカーレットを拐い、傷つけ、殺そうとした。……その罪を、死ぬより辛い痛みで償え」
それは戦闘ではなかった。一方的な処刑であり、教育的指導だった。
物理的な暴力の嵐。
スカーレットは、その光景を眺めながら、ようやく切れたロープを解いた。
「……殿下。ほどほどにしてくださいね。死なせてしまっては、法で裁けませんから」
◇
数分後。
部屋の床には、全身が腫れ上がり、ピクリとも動かない紫色の物体――アランが転がっていた。
レオンハルトは剣の血糊を払い、息を整える。
「……ふぅ。少しスッキリした」
「野蛮ですね」
スカーレットが苦笑する。
そこへ、破壊された扉の向こうから、多数の足音が近づいてきた。
「殿下! ご無事ですか!」
飛び込んできたのは、応急処置を終えたレイブンと、レオンハルトの私兵たちだ。
彼らは部屋の惨状を見て息を呑み、そして床に転がる物体を見て目を丸くした。
「な、なんだこの紫の生き物は……?」
「新種の魔獣か?」
「犯人のアラン・ド・ノワールです」
スカーレットが淡々と告げる。
「拘束を。……この色は二週間は落ちませんので、逃げ出してもすぐに見つかりますよ」
騎士たちが慌ててアランを取り押さえ、後ろ手に縛り上げる。




