第45話:残された道標(サイエンス・トレイル)
時間を、少し遡る。
スカーレットが連れ去られた直後、レオンハルトが現場に到着した時のこと。
下層区の路地裏は、絶望的な冷たさに包まれていた。
叩きつけるような豪雨が石畳を打ち、泥水を洗い流していく。
そこに倒れていた護衛のレイブンは、すでに医療班によって搬送された後だった。残されたのは、誰もいない闇と、降りしきる雨音だけ。
「……殿下」
先行して現場を捜索していた近衛騎士の隊長が、沈痛な面持ちで膝をついた。
「申し訳ありません。……痕跡が、ありません」
「ない、だと?」
「はい。雨がすべてを洗い流してしまいました。犯人の足跡も、魔力の残滓も、匂いさえも。探知魔法も反応しません。これでは、東西南北どちらへ連れ去られたのかすら……」
騎士の声が震える。
彼らもまた、必死だった。主君の大切な人を守れなかった悔しさと、手掛かりが完全に途絶えた無力感に打ちひしがれていた。
「見えない敵」に、さらに「雨」という天然の隠れ蓑まで与えてしまったのだ。常識的に考えれば、これ以上の追跡は不可能だった。
だが。
レオンハルトだけは、絶望していなかった。
「……諦めるな」
彼は雨に打たれながら、鋭い眼光で虚空を睨みつけた。
「相手はスカーレットだぞ? あの傲慢で、計算高くて、甘党の科学者だ。ただ大人しく連れ去られるようなタマか?」
「し、しかし……」
「彼女は必ず残している。犯人には見えず、魔法使いにも見えず……俺たちにしか読めない**『手紙』**をな」
レオンハルトは振り返り、後ろに控えていたガラス職人のテオに顎でしゃくった。
「テオ。例の『箱』を開けろ」
「は、はいっ!」
テオが背負っていた木箱を、泥の上に置く。
中から取り出されたのは、奇妙な形をしたカンテラだった。
通常の魔石灯とは違う。黒っぽい硝子で覆われた、禍々しいほどの紫色をした魔石が嵌め込まれている。
スカーレットが開発し、テオが硝子を加工した試作品――「紫外線投光器(UVライト)」だ。
「で、殿下。これ、局長が『直視すると網膜が焼けるから気をつけて』って……」
「構わん。点けろ」
レオンハルトはカンテラをひったくると、迷わずスイッチを入れた。
ブゥン……。
低い駆動音と共に、周囲の空間が異様な色に染まった。
紫色の、暗く重い光。
肉眼では、ただ景色が薄暗く紫がかっただけにしか見えない。明るく照らすわけでもなく、騎士たちは「これが何の意味があるのか」と顔を見合わせた。
「何も変わりませんが……」
「いいや。足元をよく見ろ」
レオンハルトは、カンテラを地面に向けた。
スカーレットが連れ去られたであろう、路地の奥へ。
その瞬間。
世界の色が反転した。
「――なッ!?」
騎士たちが悲鳴を上げる。
何もなかったはずの泥だらけの地面に、鮮烈な「蛍光グリーンの斑点」が浮かび上がったのだ。
それは蛍の光のように、あるいは毒々しい燐光のように、闇の中で主張していた。
「ひぃっ!? 毒か!? 地面が光ってる!」
「魔獣の体液か!?」
「落ち着け。これは毒ではない」
レオンハルトは、光る地面に膝をつき、手袋をした指でその輝きを拭った。
指先についてもなお、その液体は緑色に発光し続けている。
「これは彼女からの『招待状』だ」
彼の脳裏に、スカーレットの得意げな解説が蘇る。
『フルオレセイン。特定の波長の光にだけ反応して輝く試薬です』。
「魔法による追跡を警戒した犯人の裏をかく、純物理的なマーキングだ。……雨ごときで落ちるようなヤワな代物じゃない」
犯人のアランは「見えないこと」に絶対の自信を持っていた。
だからこそ、自分の足元で、あるいは自分が引きずっている獲物の足元で、見えない塗料が撒き散らされていることに気づけなかったのだ。
魔法使いの驕りが生んだ、致命的な死角。
「間抜けめ。自分で自分の居場所を垂れ流しているとも知らずに」
レオンハルトは獰猛に笑った。
道は開けた。
「行くぞ。この光を辿る!」
◇
一行は、紫色の光を頼りに路地裏を進んだ。
蛍光の道は、点々と、しかし確実に続いていた。
その道筋は、単なる移動ルート以上の情報を、レオンハルトに語りかけてきた。
壁に、光る手形がついている場所があった。
指先が擦れ、不自然な形に残っている。
(……ここで一度立ち止まったな)
レオンハルトは光る手形に自分の手を重ねる。
(抵抗した跡か? ……いや、違う。指の形が『矢印』になっている。こっちへ行けという指示だ)
さらに進むと、地面の塗料が乱れ、広範囲に飛び散っている箇所があった。
(ここでは犯人が体勢を崩している。……スカーレットが足を使ったな。踵を落としたか、蹴りを入れたか)
レオンハルトの口元が緩む。
彼女は諦めていない。
ナイフを突きつけられ、連行されている最中だというのに、彼女は冷静に犯人の隙を窺い、後続部隊のために情報を残し続けている。
「……元気そうで何よりだ」
光の跡を見るたびに、彼女の息遣いが聞こえるようだった。
『早く来なさい』『こっちは任せて』という、無言の圧力が伝わってくる。
離れていても、二人の思考はリンクしていた。
やがて、光の道は街外れの廃墟区画へと至った。
瓦礫の山の陰に、古びたマンホールがある。
その蓋の縁には、これでもかと言うほどべったりと、蛍光塗料が塗りたくられていた。
「ここか」
「地下……ですね」
テオが地図を広げるが、首を傾げる。
「この先は王都の『旧地下水道』です。百年前に閉鎖されて、今は迷路みたいに入り組んでいて……地図にも載っていませんよ?」
「それに、地下には野良の魔獣が巣食っているとの報告もあります」
騎士が懸念を示す。
地図なき地下迷宮。罠と魔獣が待ち受ける暗闇。
だが、レオンハルトは剣の鯉口を切った。
「地図ならある」
彼はカンテラを掲げた。
「彼女が描いた『光の地図』がな」
躊躇はなかった。
レオンハルトは風魔法を放ち、錆びついたマンホールの蓋を吹き飛ばした。
ぽっかりと開いた暗黒の穴。そこからは、腐敗臭と湿気が立ち上ってくる。
「行くぞ。……この先は、王国の法律の適用外だ」
レオンハルトは、漆黒の穴へと身を躍らせた。
「俺が裁く」
その背中は、もはや高貴な王子のものではなかった。
愛する者を奪われた、怒れる「捕食者」そのものだった。




