第44話:監禁場所での「調査」
意識が浮上する。
後頭部を殴られたような鈍痛。
スカーレットは目を開ける前に、まずは自身の状況を確認した。
両手首は後ろ手に縛られ、硬い木の椅子に固定されている。足首も同様だ。
だが、奇妙なことに口は塞がれていない。猿轡も、目隠しもない。
(叫んでも誰も来ない場所だから? いいえ、もっと悪趣味な理由ね。……『悲鳴を聞きたい』というサディズム)
彼女はゆっくりと瞼を開けた。
薄暗い空間。石と煉瓦で組まれた壁。カンテラの頼りない明かりが、湿った空気を照らしている。
そして目の前には、豪奢なベルベットの椅子に座り、果物ナイフで林檎を剥いている男がいた。
アラン・ド・ノワール。
透明化を解いた彼は、整った顔立ちに歪んだ笑みを浮かべ、こちらを見ている。
「お目覚めかい、名探偵」
彼は切り取った林檎の一片をナイフの先に突き刺し、スカーレットの目の前に差し出した。
「食うか? 最後の晩餐だ」
「結構です。……その林檎、断面が褐変していますよ。ポリフェノールオキシダーゼによる酸化反応です。味も落ちているでしょう」
スカーレットは乾いた唇で、事務的に答えた。
アランの眉がピクリと跳ねる。彼は苛立ちを隠さずに林檎を床に捨て、ナイフの切っ先をスカーレットの頬に押し当てた。
「……減らず口を。怖くないのか? これから解体されるんだぞ」
「恐怖は判断力を鈍らせる、非効率な感情ですので」
スカーレットは冷静に――いや、心拍数一二〇の頻脈を理性でねじ伏せながら、アランを見据えた。
「それより、質問に答えていただけますか? ここはどこでしょう?」
「ハッ! 教える義理があるかよ。……ま、地獄の一丁目ってところだ」
アランは嘲笑い、再びソファに深々と座り込んだ。
その態度は尊大だが、どこか落ち着きがない。ナイフを弄び、貧乏ゆすりをしている。
(典型的な『権威主義的パーソナリティ』。父親(騎士団長)への劣等感と、自分より弱いものを支配したいという欲望の塊……)
スカーレットは観察を続ける。
彼がスカーレットをすぐに殺さず、こうして会話を楽しんでいるのは、自分の優位性を確認したいからだ。
「自分を見つけ出した賢い女」を屈服させ、恐怖させることで、彼は自尊心を満たそうとしている。
「貴方、お父様に褒められたことがないでしょう?」
唐突に、スカーレットが尋ねた。
アランの動きが止まる。
「……あ?」
「優秀な騎士団長の息子としての重圧。期待に応えられない焦り。だから貴方は、『透明化』という誰にも干渉されない安全圏から一方的に他者を傷つけることで、全能感に浸ろうとした」
「黙れ」
「可哀想に。貴方の殺人は、ただの駄々っ子の癇癪です」
図星だったのだろう。アランの顔が赤く染まり、憤怒に歪む。
彼は立ち上がり、スカーレットに掴みかかろうとする。
だが、それこそがスカーレットの狙いだった。
会話で時間を稼ぎつつ、彼女は五感とスキルをフル稼働させ、この場所の特定を行っていたのだ。
(視覚情報:煉瓦造りの壁。目地から白い粉が吹き出している……『白華現象』。石灰分が水分と共に染み出している証拠)
(嗅覚情報:カビ、下水の腐敗臭。そして、微かな……『硫黄(卵の腐ったにおい)』)
(聴覚情報:遠くから響く、ゴーッという重低音。地下水脈の奔流)
スカーレットの脳内で、王都の地下地図が展開される。
一〇〇年前に作られた煉瓦造りの旧下水道。
その中でも、硫黄泉の鉱脈に近く、かつ大量の水が流れる音がする場所。
(……特定しました。王都北区、旧地下水道と廃棄鉱山の接続エリア(ジャンクション))
そこは、王都の拡張工事に伴い閉鎖され、地図からも消された迷宮だ。
普通の人間なら辿り着けない。だが、場所さえ分かれば攻略法はある。
「……貴様、さっきから何をブツブツと」
アランがスカーレットの顎を掴み、無理やり上を向かせる。
ナイフが喉元に食い込む。チクリとした痛みと共に、鮮血が一筋流れる。
「もういい。お喋りは終わりだ。……まずはその生意気な目からくり抜いてやる」
彼の瞳に、昏い殺意が宿る。本気だ。
スカーレットは背中のロープを探る手を止めた。
結び目は「男結び」。摩擦係数は高いが、手首の関節を外せば抜けなくもない。だが、それにはあと数分かかる。
間に合わない。
(……賭けるしかありませんね)
スカーレットは、目前に迫る刃を見ても瞬き一つせず、不敵に微笑んだ。
「お待ちなさい。……貴方、自分が『無敵』だと思っているでしょう?」
「ああ? 当たり前だ。俺は誰にも見えない、触れられない。神に選ばれた存在だ」
「いいえ。貴方はもう、『マーキング』されていますよ」
アランの手が止まる。
「……何だと?」
「私がここまで来るのに、どれだけの『科学のパンくず』を撒いてきたと思っているのです?」
スカーレットは、自分の靴――ヒールの中に仕込んだギミックを意識する。
そこから滴り落ちた蛍光塗料は、今もなお、暗闇の中で輝く道標となっているはずだ。
「貴方が私を引きずってきた道には、貴方には見えない光の道ができています。私の相棒は、今ごろそれを辿って、すぐそこまで来ていますよ」
それはハッタリ半分、願望半分だった。
レオンハルトがブラックライトに気づいてくれるか。雨で塗料が流されていないか。不確定要素は多い。
だが、彼女は信じていた。
あの男なら、たとえ地獄の底だろうと、扉を蹴破って入ってくるはずだと。
「ハッ! 馬鹿かお前は」
アランは鼻で笑った。
「脅しのつもりか? 俺は一度も姿を見せていない。雨も降っていた。追跡なんて不可能なんだよ」
「物理法則を甘く見ないことです」
「うるさい!」
アランがナイフを振りかぶる。
その瞬間。
――ズゥゥゥゥン……。
部屋の空気が震えた。
遠くの、しかし確実に近づいてくる重低音。
それは水音ではない。何かが物理的に破壊される音だ。
「……あ?」
アランが動きを止め、天井を見上げる。
スカーレットもまた、通気ダクトの反響音に耳を澄ませた。
聞こえる。
鋼鉄がひしゃげ、岩盤が砕ける音。
そして、怒り狂った「野獣」の足音が。
「……残念ですが、時間切れ(タイムオーバー)です」
スカーレットは、心底嬉しそうに、そして誇らしげに告げた。
「聞こえませんか? 『害虫駆除業者』が到着した音が」
次の瞬間。
アランが封鎖していたはずの分厚い鉄扉が、凄まじい衝撃と共に内側へひしゃげた。
ドォォォォォォンッ!!
爆音。土煙。
吹き飛んだ扉の向こうから、漆黒の戦闘服を纏った男が姿を現す。
手には青白く輝く長剣。全身からは、物理的な圧力を伴うほどの殺気が噴き出している。
第二王子、レオンハルト。
彼は部屋の中を見渡し、スカーレットの無事(首の怪我を見て眉を跳ねさせたが)を確認すると、地獄の底から響くような声で言った。
「……見つけたぞ」
アランが悲鳴のような声を上げる。
「な、なんでだ!? ここは地図にもない場所だぞ!?」
「地図ならあったさ。……彼女が描いた『光の地図』がな」
レオンハルトは一歩踏み出す。
その足元、泥だらけのブーツには、微かに緑色の蛍光塗料が付着していた。
「お楽しみ中すまないが、アラン・ド・ノワール。……ゴミの回収に来た」
科学の道標は、最強の剣を導いた。
狩る者と狩られる者の立場が、今、逆転する。




