第42話:襲撃、見えない手
王都の「下層区」にある闇市。
上層区の影に覆われたこの場所は、昼間でも薄暗く、蒸気機関の排気と香辛料、そして未処理の下水の臭いが混ざり合った独特の芳香に満ちている。
正規のルートでは手に入らない劇薬や、出所不明の魔道具が並ぶ屋台の列を、二つの影が歩いていた。
一人は、フードを深く被った小柄な女性。
もう一人は、目立たない商人の服装をした長身の女性――変装した侍女のレイブンだ。
「……お嬢様。これ以上奥へ進むのは危険です」
レイブンが唇を動かさずに警告する。
周囲の視線は粘着質で、値踏みするような下卑た色が混じっている。ここには、貴族の令嬢などという「上玉」が迷い込めば、即座に誘拐して売り飛ばそうとする輩がごまんといるのだ。
「構いません。目的のブツは、奥の薬屋にしかありませんから」
フードの下で、スカーレットは涼しい顔で答える。
彼女の目的は二つ。
表向きは、実験で枯渇した「高純度エタノール」と、脳の燃料である「最高級カカオ豆」の調達。
だが、真の目的は――
「それに、釣り針には餌が必要でしょう?」
彼女自身が、殺人鬼アラン・ド・ノワールを誘い出すための「生きた撒き餌」となることだ。
アランは必ず来る。自分のDNAを暴いた「名探偵」を、その歪んだプライドにかけて放っておくはずがない。
「……視線を感じます」
レイブンが足を止めずに呟く。
「複数です。ですが、殺気はありません。ただの野次馬か、隙を窺うスリでしょう」
「そうですか。……もっと『濃い』のが来るといいのですが」
スカーレットはため息をつき、わざと人通りの少ない路地裏への近道を選んだ。
護衛がいるとはいえ、無謀な行為だ。だが、リスクを冒さなければ、透明人間という「見えない脅威」を可視化することはできない。
◇
喧騒が遠ざかり、腐った水たまりが点在する路地裏に入る。
湿った風が吹き抜け、錆びた看板がキーキーと音を立てて揺れている。
スカーレットは歩調を緩めず、五感を研ぎ澄ませた。
(来るなら、ここだわ。監視の目が行き届かない死角)
その時だった。
隣を歩いていたレイブンが、弾かれたように立ち止まった。
彼女の鋭い眼光が、何もない虚空を射抜く。
「――ッ! お嬢様、伏せて!」
レイブンが叫び、懐の短剣を抜こうとした。
元暗殺者の超人的な勘が、視界には映らない「殺気」を捉えたのだ。
だが、遅かった。
彼女が動くよりも早く、不可視の暴威が炸裂した。
ドォン!!
鈍く、重い衝撃音が路地に響き渡る。
何もいないはずの空間から放たれた一撃が、レイブンの腹部に直撃したのだ。
「が、はっ……!?」
レイブンの身体がくの字に折れ、後方へと吹き飛ぶ。
受け身を取る暇もなかった。彼女は煉瓦の壁に背中から激突し、どうと地面に崩れ落ちた。
口から血を吐き、ピクリとも動かなくなる。
「レイブン!?」
スカーレットが振り返る。
そこには、誰もいなかった。
ただ、レイブンを吹き飛ばした後の空気の揺らぎと、土煙が舞っているだけ。
(速い。そして重い)
スカーレットは冷静に――いや、恐怖を理性で抑え込んで分析した。
(魔法による遠隔攻撃ではありません。質量のある物体による、純粋な物理攻撃。……レイブンほどの達人が反応できない速度と隠蔽能力)
――来た。
最悪の捕食者が。
スカーレットは動けなかった。
恐怖で足がすくんだのではない。圧倒的な「暴力」の前で、非力な科学者が無駄な抵抗をしても意味がないことを理解していたからだ。
背後で、空気が揺らいだ。
ゾワリと、肌が粟立つ。
冷たい感触。
上質な革手袋が、背後からスカーレットの口元を強く塞いだ。
同時に、鋭利なナイフの切っ先が、首筋に押し当てられる。
「ん……ッ」
「暴れるなよ。喉笛を掻っ切るぞ」
耳元で、粘つくような男の囁き声がした。
姿は見えない。だが、その声には聞き覚えがあった。
そして何より、鼻をくすぐるこの香り。
(ベルガモットとアンバー……)
高級整髪料の香り。
スカーレットは、口を塞がれたまま、喉の奥で声を絞り出した。
「……アラン・ド・ノワール」
「ほう。声だけで分かるとは、さすがだな」
空間から、クツクツという不快な笑い声が漏れる。
アランはナイフを少し食い込ませた。チクリとした痛みが走り、一筋の血が流れる。
「よう、名探偵。随分と探したぜ」
「……光栄ですね。貴方のような有名人に探されるなんて」
「減らず口を。……さあ、愛しのラボへ案内してくれ。そこでたっぷり可愛がってやる」
アランの目的は、単なる殺害ではない。
自分を追い詰めた「頭脳」に対する、屈折した復讐と支配欲。
彼はスカーレットの体を乱暴に引き寄せ、路地の奥へと引きずり込み始めた。
◇
抵抗すれば、即座に喉を切られる。
悲鳴を上げることも、魔法で反撃することもできない。
絶体絶命の状況。
だが、スカーレットの瞳から光は消えていなかった。
彼女は、恐怖に震えるか弱い令嬢を演じながら、内心で冷徹に計算していた。
(私の体はくれてやります。ですが……タダでは済みませんよ)
引きずられながら、彼女は両足の靴に意識を集中させる。
ドレスの下に隠された、特注のヒール。
テオに作らせた、極小のギミック。
カチッ。
スカーレットは、不自然に見えないよう、歩調に合わせて両足の踵を強く打ち合わせた。
小さな、石を踏んだような音が鳴る。
アランは気づかない。獲物が怯えているとしか思っていない。
だが、その瞬間。
靴底に仕込まれたタンクの弁が開き、粘度の高い液体が滲み出し始めた。
ポタリ。ポタリ。
一歩進むごとに、スカーレットの足跡には「透明な液体」が滴り落ちていく。
それは、ただの水ではない。
フルオレセインと強力な定着剤を混合した、特殊な塗料だ。
(肉眼では見えません。犯人の目にも、通行人の目にも映らない、ただの水滴)
(ですが、特定の波長の光――『紫外線』を当てれば、闇夜に輝く道となる)
スカーレットは、意識して足を引きずった。
壁に手を突き、わざとよろめく振りをして、手形を残す。
それは、見えない犯人に連れ去られる彼女が残した、唯一のメッセージ。
「私はここにいる。ここを通った」
「おい、早く歩け!」
アランが苛立ち、スカーレットに睡眠魔法をかけた。
「……んぐっ」
視界が揺らぐ。手足の力が抜け、意識が泥沼に沈んでいく。
だが、彼女は最後の力を振り絞り、心の中で叫んだ。
(見つけてください、殿下)
彼女は、自分が撒いた「科学のパンくず」を信じていた。
そして何より、それを読み解く力を持った、最愛の相棒を信じていた。
(貴方なら……この見えない光が見えるはずです――)
スカーレットの体が崩れ落ちる。
アランは舌打ちをして、気絶した彼女を肩に担ぎ上げた。
そして、透明化の範囲を広げ、彼女ごと姿を消した。
路地裏には、誰もいなくなった。
壁に叩きつけられて動かないレイブンと。
そして、肉眼では決して見ることのできない、点々と続く液体の跡だけを残して。
やがて、遠くで雷鳴が轟いた。
嵐が来る。
それは、科学という名の反撃の狼煙だった。




