第39話:容疑者特定、しかし……
第零班ラボの作業台の上、魔導ライトボックス(発光板)が青白く輝いている。
その光の上に、スカーレットは二枚の羊皮紙を重ねて置いた。
一枚は、犯行現場に残された「透明な髪の毛」のDNAパターン。
もう一枚は、レオンハルトが持ち帰った「アランの櫛」から採取したDNAパターン。
未明の静寂の中、スカーレットとレオンハルト、そしてテオが息を呑んでその図面を覗き込む。
「……出ましたね」
スカーレットの声は、氷のように冷たく、そして確信に満ちていた。
二枚の羊皮紙に描かれたオレンジ色の縞模様。それらは、まるで最初から一つの絵であったかのように、寸分違わず重なり合っていたのだ。
「完全一致です」
「これが……証拠か」
レオンハルトが唸る。目の前にあるのはただの線の羅列だ。だが、スカーレットの説明を聞いた今では、それが逃れようのない「鎖」に見える。
「確率論の話をしましょうか」
スカーレットは眼鏡の位置を直し、淡々と数字を口にした。
「この複雑なバンドパターンが、赤の他人同士で偶然一致する確率は、およそ四兆七〇〇〇億分の一。つまり、この星の全人口よりも遥かに多い数字です」
「……天文学的だな」
「ええ。結論は一つです。現場にいた『透明人間』と、騎士団のアラン・ド・ノワールは、生物学的に同一人物です」
ドンッ。
レオンハルトが拳を机に叩きつけた。
「……ッ、やはりアランか!」
悔しさと怒りが入り混じった声が響く。
「あいつは優秀な騎士だった。剣の腕も立ち、部下からの信頼も厚かったはずだ。なぜだ、なぜ市民を無差別に殺すような真似を……」
「動機は分かりません。ですが、事実は確定しました」
スカーレットは白衣を翻し、羊皮紙を丁寧にファイルに挟んだ。
「感傷に浸っている時間はありません、殿下。夜が明ければ、彼はまた『狩り』に出るかもしれない。……直ちに身柄を拘束すべきです」
「ああ、そうだな」
レオンハルトは迷いを振り切るように顔を上げた。その瞳には、かつて部下だった男を断罪する覚悟が宿っている。
「行くぞ。この証拠を持って司法省へ向かう。正規の手続きで逮捕状を請求し、騎士団詰め所へ乗り込む」
「奴がスキルを使って逃亡する前に、物理的に拘束するわけですね」
「抵抗するなら斬り伏せる。……王族の義務だ」
二人は意気揚々とラボを飛び出した。
手の中には、科学が導き出した「絶対的な真実」がある。
これさえあれば、どんな権力者も屈服させられる――そう信じていた。
しかし、彼らはまだ知らなかったのだ。
科学という武器には、「相手がそれを理解できる知能を持っているか」という、致命的な弱点があることを。
◇
早朝の王宮、司法省長官室。
豪奢な調度品に囲まれた執務室で、司法長官を務める老人が、けだるげに書類をめくっていた。
そこへ、レオンハルトたちが乗り込んだ。
「司法長官! 緊急逮捕状の請求だ!」
レオンハルトはDNA鑑定書をマホガニーの机に叩きつけた。
「連続切り裂き魔の正体が判明した。騎士団のアラン・ド・ノワールだ。これが証拠だ!」
長官は驚いたように眉を跳ね上げ、目の前の羊皮紙に視線を落とした。
そして――数秒後、困惑したように顔を上げた。
「……殿下。これは何かの冗談ですか?」
「冗談? 大真面目だ」
「ですが、これは……ただの縞模様ではありませんか」
長官は、汚いものでも見るように羊皮紙を指先で弾いた。
「髪の毛をスライムで煮込んで、光を当てたら縞模様が出た? ……それがどうして『犯人の名前』になるのです?」
「ですから、これは生命の設計図であり……!」
スカーレットが身を乗り出して説明しようとする。
DNAの独自性、遺伝情報の不変性、確率論的証明。
だが、長官の目には、彼女の言葉が「狂人の戯言」としか映っていないようだった。
「魔法の署名もない。魔力反応もない。ただの絵ですな」
長官は鼻で笑った。
「こんなオカルトのような理屈で、名門ノワール家の嫡男を捕らえろと? 正気ですか、殿下。騎士団長が黙っていませんぞ」
「黙っていないから、何だと言うのだ!」
その時だった。
ドス、ドス、と重々しい足音が廊下から響き、長官室の扉が開かれた。
「――お呼びかな、殿下」
現れたのは、熊のように大柄な男だった。
全身を特注の鎧で包み、歴戦の傷跡が残る顔には、傲慢な笑みが張り付いている。
この国の軍事力の頂点、騎士団長ガレス・ド・ノワール。
アランの父親だ。
「ガレス……!」
「聞きましたぞ、第零班。私の息子を『髪の毛一本』で殺人鬼扱いするとは」
ガレスはスカーレットを一瞥し、侮蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。
「公爵家の令嬢ともあろう方が、随分と卑劣な捏造をする。……魔力がないと、心まで歪むのですかな?」
「捏造ではありません!」
レオンハルトが前に出る。
「これは科学的根拠に基づいた、正当な捜査結果だ! 貴様の息子は、透明化スキルを悪用して市民を殺している!」
「黙らっしゃいッ!!」
ガレスの一喝が、ビリビリと部屋の空気を震わせた。
それは理屈ではない。「権力」と「暴力」による威圧だ。
「魔法こそが正義のこの国で、わけのわからん泥遊びが証拠になるものか! スライムだの光だの、子供騙しもいい加減にしろ!」
ガレスは机の上の鑑定書をひったくると、無造作にクシャクシャに丸めた。
「あっ……!」
スカーレットが手を伸ばすが、遅い。
ガレスは丸めた羊皮紙に、魔法で火をつけた。
ボウッ。
乾燥した羊皮紙は、一瞬で炎に包まれ、灰へと変わっていく。
数兆分の一の確率で犯人を特定した「絶対的な真実」が、ただの暴力によって消失した瞬間だった。
「貴様ッ……! 王立機関の公式文書だぞ!」
「公式? 第零班(ゴミ拾い)の妄想日記の間違いでしょう、殿下」
ガレスは勝ち誇った顔で司法長官に向き直る。
「長官。このような不敬な言いがかり、騎士団として看過できませんな。……第零班には、相応の処分が必要かと」
「おっしゃる通りです、騎士団長閣下」
長官は、明らかにガレスの顔色を窺いながら頷いた。
司法もまた、軍事力という権力の前には無力なのだ。
「レオンハルト殿下、およびスカーレット嬢。……証拠不十分により、逮捕請求は却下します」
長官が木槌を叩く。
「加えて、騎士団長への名誉毀損、および捜査撹乱の疑いで、第零班には『無期限の謹慎』を命じます。……ラボから一歩も出ぬよう」
「なっ……!?」
スカーレットは唇を噛み締め、拳を固く握りしめた。
DNA鑑定は完璧だった。論理に穴はなかった。
だが、この世界には科学よりも強い力がある。
それは魔法でもなく――「無知」と「権力」だ。
理解できないものは存在しない。権力者に不都合な真実は揉み消される。
その腐敗した構造の壁は、予想以上に厚く、そして高かった。
「……行くぞ、殿下」
ガレスは踵を返し、部屋を出ていく。
去り際に、彼はスカーレットの耳元で低く囁いた。
「息子には指一本触れさせん。……二度と私の前に現れるな、魔力無しのゴミ拾い共め」
バタン、と扉が閉まる。
残されたのは、燃え尽きた灰と、敗北の苦い味だけだった。
レオンハルトが悔しげに机を叩く音が響く。
スカーレットは無言で、眼鏡の奥の瞳を細めた。
その瞳には、絶望の涙ではなく、静かで、しかし強烈な怒りの炎が灯っていた。
(……よろしい。言葉で分からないのなら、別の方法で理解させて差し上げましょう)
科学者は、ただでは転ばない。
理不尽な敗北は、彼女の中で、より過激で冷徹な反撃への導火線となっていた。




