第38話:実験室の夜、螺旋を描く羊皮紙
深夜の王宮地下、第零班ラボ。
換気扇が回る低い音だけが響く静寂の中、スカーレットは背もたれにぐったりと身体を預けていた。
「……ふぅ」
白衣の袖から覗く指先が、微かに震えている。
数時間に及ぶ人力PCR(温度管理)の代償だ。魔力と集中力を限界まで搾り取られ、今の彼女は抜け殻のようだった。
「お疲れ様。……飲め」
コツン、とデスクに陶器のマグカップが置かれた。
湯気と共に、強烈な焙煎香が立ち上る。
レオンハルトが差し出したのは、王宮騎士団が徹夜の警備任務で愛飲しているという「特濃ブラックコーヒー」だ。
「……感謝します、殿下。ですが、これではただの泥水です」
「泥水とは失礼な。眠気覚ましには最強だぞ」
「カフェインだけでは足りません。脳がカロリーを叫んでいるのです」
スカーレットは震える手で、デスクの脇にあるガラス瓶に手を伸ばした。
中には角砂糖が詰まっている。
彼女はトングを使うのももどかしく、指で一つ、二つ……五つ。
漆黒の液体の中に、白い塊を次々と沈めていく。
「……おい。砂糖水を作る気か? 味覚が死んでるな」
「生きていますよ。今の私には、これでもまだ苦いくらいです」
スカーレットはスプーンでかき混ぜることもせず、ジャリジャリとした底の沈殿物ごとコーヒーを喉に流し込んだ。
脳の深層に、直接糖分が叩き込まれる感覚。
ふっと、視界の霞が晴れていく。
「……生き返りました」
「それは何よりだ。で、次はどうする?」
レオンハルトが実験台の方へ顎をしゃくる。
そこには、増幅作業を終えた試験管が静置されていた。
見た目は透明な水のままだが、その中には今、数億倍に増やされた「犯人のDNA」がひしめいているはずだ。
「仕上げです。目に見えないミクロの暗号を、誰の目にも明らかな『模様』として焼き付けます」
スカーレットは立ち上がり、白衣を翻した。
仮眠をとっていたテオも、気配を察して跳ね起きる。
「は、はいっ! 準備できてます!」
◇
実験台の中央に設置されたのは、四角い箱のような装置だった。
中には、半透明のプルプルとした板が敷かれている。
「これは寒天です。海藻から抽出した成分で固めました」
「寒天? おやつの材料か?」
「似ていますが、食べられませんよ。……テオ、電極のセットを」
スカーレットは、寒天の板の端に開けられた小さな窪み(ウェル)に、慎重にDNA溶液を注入していく。
そして、寒天の両端に、雷属性の魔石を組み込んだ電極を接続した。
「これから行うのは『電気泳動』。簡単に言えば、『分子の障害物競走』です」
「障害物競走?」
レオンハルトが怪訝そうに眉を寄せる。
「はい。DNAはマイナスの電気を帯びています。ですから、電気を流すとプラス極に向かって進もうとします」
スカーレットは寒天を指差した。
「ですが、この寒天の中は、目に見えない網目構造になっています。体の小さいDNAは網目をスルスルと抜けられますが、大きいDNAは引っかかって遅れてしまう」
「なるほど。ゴールまでの足の速さが違うわけか」
「その通りです。一定時間走らせると、DNAの断片は『長さ(重さ)』ごとに分かれて、寒天の中に整列します。……それが、犯人の指紋代わりになるのです」
スカーレットは魔導スイッチを入れた。
ブゥゥン……と低い駆動音が響き、微弱な電流が流れ始める。
ここからは、待つ時間だ。
分子たちが寒天の網目を潜り抜け、それぞれのゴールラインへ到達するのを、ひたすら待つしかない。
ラボには、時計の針の音と、魔道具の駆動音だけが響いている。
深夜特有の、世界から切り離されたような静寂。
レオンハルトは、青白い光に照らされたゲルを見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「……お前は、怖くないのか?」
「何がですか?」
「人の根源を暴く技術だ。使いようによっては、冤罪をでっち上げることも、王家の血統を否定して国を滅ぼすこともできる」
彼は、自らの手を見つめた。
「俺たちは今、パンドラの箱を開けているのかもしれない。……魔法使いが知るべきではなかった、神の領域にな」
それは、為政者としての健全な畏れだった。
スカーレットは作業の手を止めず、淡々と答える。
「科学に善悪はありません、殿下。あるのは『事実』だけです」
「事実、か」
「包丁は美味しい料理を作ることもできますが、人を刺し殺すこともできます。私が怖いのは、包丁そのものではありません。それを握る人間の『悪意』や『無知』です」
彼女はレオンハルトを見上げた。
「私は、貴方にならこの包丁を預けられます。貴方は、使い方を間違えない人ですから」
その言葉に、レオンハルトは少しだけ目を見開いた。
そして、苦笑する。
「……買い被りだな。だが、善処しよう」
◇
三十分後。
スカーレットは寒天の板を取り出した。
それを、特殊な染色液(エチジウムブロマイドの代用品として調合した蛍光試薬)の入ったバットに浸す。
「現像の時間です。……照明を消してください」
テオが魔石灯のスイッチを切る。
完全な闇がラボを包んだ。
スカーレットは、手にした「紫外線投光器(UVライト)」を構える。
「見えざる鎖よ。光の下に姿を現しなさい」
カチッ。
スイッチが入る。
紫色の不可視光線が、寒天の板に照射された。
その瞬間。
暗闇の中に、幻想的な光景が浮かび上がった。
「…………っ!」
レオンハルトとテオが息を呑む。
何もないはずの透明な板の中に、鮮やかなオレンジ色の光が灯ったのだ。
それは、無数の横線が梯子のように並んだ、幾何学的な「縞模様」だった。
「これが……犯人の正体か?」
「ええ。美しいでしょう?」
スカーレットは、オレンジ色の光に照らされながら微笑んだ。
「この縞模様の位置とパターンこそが、個人を特定する絶対的なID(識別子)。……生命のバーコードです」
暗闇に浮かぶ光の列。
それは魔法陣よりも神秘的で、そして冷酷なまでに整然としていた。
感情も、言い訳も、権力も介在しない。ただ物質としての事実だけが、そこに輝いている。
スカーレットは、その光のパターンを羊皮紙に正確に転写し始めた。
出来上がったのは、左側にだけ縞模様が描かれた鑑定書。
右側は空白だ。
「犯人の『名前』はここに書かれています。あとは、これと同じ名前を持つ人間を探すだけ」
彼女は鑑定書を机に置き、レオンハルトに向き直った。
「殿下。……例のモノ(比較用サンプル)は入手できていますか?」
「ああ。抜かりはない」
レオンハルトは懐から、布に包まれた物体を取り出した。
それは、使い込まれた「銀の櫛」だった。
「騎士団の更衣室から『拝借』してきた。アラン・ド・ノワールの私物だ。奴の髪の毛がたっぷりと絡みついている」
「泥棒の才能もおありのようですね」
「国のためだ、不問にしろ」
レオンハルトはニヤリと笑い、櫛をスカーレットに渡した。
現場に残された「謎の髪の毛」と、容疑者アランの「髪の毛」。
二つの証拠が出会う時、完全犯罪の幕が下りる。
「では、確認しましょう」
スカーレットは櫛から髪の毛を採取し、再び試験管を手に取った。
「彼が『クロ』か『シロ』か。……科学の神様に聞いてみます」




