第36話:透明人間の正体は「貴族」
彼女の目の前には、テオが作成した最高倍率の顕微鏡が鎮座している。そのレンズの下、スライドガラスに挟まれているのは――先ほど現場で確保し、メチレンブルーで青く染め上げられた「一本の髪の毛」だ。
「……たかが髪の毛一本だぞ」
後ろで腕を組んでいたレオンハルトが、疑わしげに口を開く。
「色や長さが分かったところで、王都には何万という男がいる。これだけで犯人にたどり着けるとは思えんが」
「いいえ、殿下。髪の毛は、口よりも雄弁に持ち主の生活を語ります」
スカーレットは顕微鏡から目を離さず、魔導モニターのスイッチを入れた。
空中にホログラムスクリーンが展開され、拡大された髪の毛の表面が映し出される。
「ご覧ください。この美しいキューティクルを」
画面に映る青い繊維は、まるで磨き上げられたガラス細工のように滑らかだった。
「損傷が極めて少ない。枝毛も切れ毛もありません。これは、日常的に高級なトリートメント剤で手入れされ、かつ紫外線や乾燥から守られている証拠です」
「……つまり?」
「下層区の住人や野盗であれば、栄養失調や過酷な環境で髪はもっと痩せ、表面が剥離しているはずです。しかし、この髪の持ち主は高タンパクな食事を摂り、空調の効いた屋内で生活している」
スカーレットはモニターを指先で弾いた。
「犯人は、生活に困窮したスラムの住人でも、粗野な傭兵でもありません。……裕福な貴族階級の、若い男性です」
レオンハルトの眉がピクリと動く。
通り魔的な犯行から、社会への不満を持つ貧困層の犯行かと思われていたが、科学が示した像は真逆だった。
満たされた者が、娯楽として狩りを行っている可能性。
「さらに、決定的な証拠があります」
スカーレットは、髪の毛を慎重にピンセットでつまみ上げ、ガスクロマトグラフィー(気体成分分析装置)の投入口へと入れた。
髪の表面に付着していた、極微量の油分を分析するためだ。
数分後。排出されたデータシートを見て、スカーレットは口角を上げた。
「……ビンゴ。特定の『整髪料』の成分が検出されました」
「整髪料だと?」
「ええ。『ベルガモット』と『竜涎香』、それに『白檀』をブレンドした香油です」
その香りの構成を聞いた瞬間、レオンハルトの表情が強張った。
彼は鼻を鳴らし、記憶の中にある「臭い」を探る。
「……待て。その香りは……」
「お心当たりが?」
「ああ。王都の一等地にある高級理髪店『バルビエ』のオリジナルブレンドだ。一本で金貨数枚はする高級品だぞ」
レオンハルトの声が低くなる。
「そして、その香りは……最近、騎士団の若い連中の間で流行っているものだ。『兜を被っても匂わない』とかでな」
貴族。若い男。そして、騎士団との接点。
ぼんやりとしていた犯人像が、急速に輪郭を帯びていく。
◇
スカーレットは白衣を翻し、壁に貼られた王都の地図の前へと移動した。
そこには、これまでに起きた四件の殺人現場の位置に、赤いピンが刺されている。
「次に、『地理的プロファイリング』を行います」
彼女は定規を当て、ピンとピンの間を線で結んだ。
「殿下。この犯行現場の配置に、違和感はありませんか?」
「違和感?」
「はい。すべての現場は、人通りがあったり、街灯があったりと、本来なら犯罪には適さない場所ばかりです。透明化スキルがあるとはいえ、リスクが高い」
スカーレットは、赤いピンのそばにある建物――「騎士団の詰め所」や「検問所」を青いマーカーで囲んでいく。
「見てください。すべての現場は、騎士団の拠点から半径五〇〇メートル以内。……灯台下暗し、とはよく言ったものです」
「騎士団の膝元で殺していたというのか……?」
「それだけではありません。犯行時刻と、騎士団の『巡回シフト表』を重ねてみましょう」
スカーレットは、レオンハルトが持ち帰った極秘資料を地図に重ねた。
すると、恐ろしい事実が浮かび上がった。
第一の事件:A班とB班の交代時間。
第二の事件:東地区の巡回ルート変更日。
第三の事件:夜間演習による警備の手薄な時間帯。
「……なんてことだ」
レオンハルトが呻く。
「すべての犯行が、騎士団の巡回ルートの『死角』であり、かつ『交代時間の空白の五分間』を正確に狙って行われている」
「偶然にしては出来すぎです」
スカーレットは断言する。
「犯人は、騎士団の動きを完璧に把握している。外部の人間に情報が漏れている? いいえ、もっと単純です」
「……『内部犯』か」
「はい。それも、シフト表を自由に閲覧できる立場にある、騎士団関係者です」
パズルのピースは揃った。
1.裕福な貴族の若い男性。
2.騎士団の内部事情に精通している。
3.視覚、聴覚、魔力反応を完全に消去する「透明化スキル」の持ち主。
その条件に当てはまる人物。
レオンハルトの顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
認めたくない。だが、認めざるを得ない。
彼の脳裏に、一人の青年の顔が浮かんでいた。
「……一人、いる」
レオンハルトが絞り出すように言った。
「条件に、完璧に当てはまる男が」
「お名前は?」
「アラン・ド・ノワール」
その名は、スカーレットでさえ聞き覚えのあるものだった。
「……ノワール家。現・騎士団長の御子息ですか」
「ああ。次期団長候補のエリートだ。剣の腕も立つし、性格も……表向きは好青年だ」
レオンハルトは拳を握りしめ、机を叩いた。
「奴のユニークスキルは【完全隠蔽】。視覚だけでなく、音、匂い、魔力、気配……自身の存在を世界から切り離す、暗殺者としては最強の能力だ」
「なるほど。捜査の手が及ばないのをいいことに、その能力を『狩り』に使っていたわけですか」
スカーレットの声は冷ややかだった。
自らの特権階級と、天与の才能を、弱者をいたぶるために使う。彼女が最も嫌悪する人種だ。
「騎士団長の息子……」
テオが震える声で呟く。
「それじゃ、警察も手が出せないんじゃ……。お父さんは国一番の武闘派で、お母さんは大貴族ですよね? そんな人を捕まえたら、僕たちの方が消されちゃいますよ……」
「ああ。奴の親父、ガレス騎士団長は息子を溺愛している。半端な証拠で捕まえようとすれば、権力で揉み消されるどころか、逆にこちらが『無実の貴族を陥れた』として断罪されるだろう」
レオンハルトは苦渋の表情を浮かべる。
相手は「見えない殺人鬼」であると同時に、「触れられない権力者」でもあるのだ。
状況証拠は揃っている。だが、決定的ではない。
「髪の毛が落ちていた? たまたま通りがかっただけだ」「シフトを知っていた? 騎士なら当然だ」と言い逃れされれば、それまでだ。
重苦しい沈黙がラボを包む。
だが、スカーレットだけは、試験管の中の青い髪の毛を見つめ、静かに微笑んでいた。
「……状況証拠だけでは足りない。つまり、言い逃れのできない『科学的確証』が必要だということですね?」
「そんなものがあるのか? 現場を見た奴は全員死んでいるんだぞ」
「ありますよ、殿下」
スカーレットは白衣のポケットから、一枚の新しい羊皮紙を取り出した。
そこには、まだ誰も見たことのない、複雑な二重螺旋の図が描かれている。
「この髪の毛が、間違いなくアラン・ド・ノワールのものであることを、神に誓って証明する技術……『DNA鑑定』の出番です」
レオンハルトとテオが顔を見合わせる。
聞き慣れない単語。だが、スカーレットの自信に満ちた表情が、それが切り札であることを物語っていた。
「DNA……?」
「ええ。全ての生物が持つ、ごまかしようのない『血の刻印』です。たとえ魔法で姿を変えても、記憶を消しても、この設計図だけは書き換えられません」
スカーレットは試験管を掲げた。
「禁断の領域に踏み込みましょう。……権力の盾を貫く、最強の槍を作るために」
見えない敵の正体は暴かれた。
次は、その首に「科学」という名の逃れられない鎖をかける番だ。




