第35話:ロカールの交換原理
石膏の粉によって暴かれた「足跡」。
それは、正体不明の悪霊と思われていた敵が、質量を持った人間であることを証明する決定打だった。
騎士たちの間に漂っていたパニックは収まり、代わりに犯人への明確な殺気が場を支配し始めていた。
「……犯人が人間であることは分かった」
レオンハルトは剣を鞘に納め、腕を組んでスカーレットを見下ろした。
「だが、依然として姿は見えないままだ。探知魔法にも引っかからない。足跡も、粉を撒かなければ見えない。……これでは、王都中の空気を殴って回るようなものだぞ」
物理的に存在していても、認識できなければ捕まえようがない。
それが「完全隠蔽」というスキルの脅威だった。
しかし、スカーレットは白衣のポケットからピンセットを取り出し、不敵に微笑んだ。
「ご心配なく、殿下。私の故郷には、犯罪捜査における『金言』があります」
彼女は人差し指を立てる。
「『すべての接触は、痕跡を残す(Every contact leaves a trace)』」
「痕跡……?」
「ええ。犯人が現場に入り、被害者と接触し、揉み合った。――ならば、犯人は必ず現場の何かを持ち去り、逆に、自分の体の一部を現場に落としています」
エドモンド・ロカール。
スカーレットの前世の世界における、近代科学捜査の父。彼が提唱した「交換原理」は、異世界においても物理法則として絶対の効力を持つ。
「たとえ透明人間であっても、新陳代謝までは止められません。皮膚は剥がれ落ち、髪の毛は抜け、汗は染み込む。……そこに『質量』がある限り、物質の交換は不可避なのです」
◇
スカーレットは再び、血に染まった遺体のそばへと戻った。
彼女の視線は、被害者の衣服と、硬直した指先に注がれている。
「被害者の服を見てください。襟元が乱れ、ボタンが一つ引きちぎられています」
「抵抗した跡だな」
「はい。彼女は死の直前、必死に犯人にしがみついた。あるいは、首を絞めようとする犯人の腕を、爪で掻きむしった可能性があります」
スカーレットはピンセットを構え、遺体の襟元へ顔を近づけた。
「……ですが、肉眼では何も見えませんね」
そこには、被害者の衣服の繊維と、飛び散った血痕があるだけだ。
犯人の髪の毛や皮膚片らしきものは見当たらない。
「犯人のスキル【完全隠蔽】は、おそらく自身の体から離れた組織に対しても、一定時間は効果を持続するのでしょう。だから、今まで誰も現場で証拠を見つけられなかった」
「透明な髪の毛を探せと言うのか? 砂浜で針を探すより難しいぞ」
「いいえ。見えなくても『在る』なら、見つける方法はあります」
スカーレットは眼鏡のブリッジを押し上げ、集中力を極限まで高めた。
「――【解析】」
ユニークスキルが発動する。
彼女の視界がミクロの世界へと潜る。
空気中に舞う塵、衣服の繊維のほつれ、血痕の飛沫パターン。
膨大な視覚情報の中から、彼女は「不自然なノイズ」を探し求める。
(透明化とは、光の屈折率を操作し、周囲の景色を透過・反射させる技術。……ならば、そこには必ず『光の歪み』が生じる)
彼女の目が、被害者の鎖骨のあたり、襟の裏側で止まった。
何も無い空間。
だが、そこだけ背景のピントが、わずかに、本当にわずかにズレていた。
(……見つけた)
スカーレットはピンセットを伸ばした。
傍目には、何もない空気を摘もうとしているようにしか見えない。
騎士たちが怪訝そうに囁き合う。
「何をしているんだ?」
「やはり、気が触れているのでは……」
雑音は耳に入らない。
彼女は慎重に、震える指先を制御し、その「歪み」の中心へとピンセットの先端を滑り込ませた。
カチリ。
指先に、微かな抵抗を感じた。
空気を摘んだのではない。確かな「物質」を挟んだ感触。
「……確保」
スカーレットはゆっくりとピンセットを持ち上げた。
先端には、何も挟まっていないように見える。
だが、彼女の手首は、重力に従って垂れ下がる「見えない糸」の重みを感じていた。
「長さ約一五センチ。わずかにウェーブがかかった、男性の体毛です」
「……スカーレット」
レオンハルトが眉を寄せて覗き込む。
「俺には何も見えん。空気を摘んでいるようにしか見えないぞ」
「ええ、人間の目には見えません。ですが、物質としてはここに存在しています」
彼女はテオを呼んだ。
「テオ。試薬瓶を。ナンバー4、『メチレンブルー溶液』です」
「は、はいっ!」
テオが鞄から取り出したのは、濃い青色の液体が入ったガラスの小瓶だった。
本来は細胞の核を染色したり、殺菌剤として使われたりする薬品だ。
「透明化はあくまで『光学的』な偽装です。表面をコーティングしている魔力の膜を、化学薬品が浸透・突破できれば……色素までは隠せません」
スカーレットは、ピンセットの先端――「何も挟んでいないように見える部分」を、青い液体の中に静かに浸した。
チャポン。
液体が揺れる。
数秒の沈黙。
そして、スカーレットがゆっくりとピンセットを引き上げた、その時だった。
「――あっ!」
テオが声を上げた。
ピンセットの先から、青い雫が滴り落ちる。
そしてそこには、くっきりと「青く染まった一本の髪の毛」がぶら下がっていたのだ。
「なっ……!?」
「出た! 空間から髪の毛が!」
騎士たちがどよめき、後ずさる。
まるで手品か、あるいは魔法を見せられたかのような衝撃。
透明だったはずの「無」が、青い染料によって「有」へと強制的に変換されたのだ。
「……これこそが、犯人の体の一部です」
スカーレットは勝利の笑みを浮かべ、染まった髪の毛を保存用の試験管へと封入した。
「魔法で姿を消せても、物質としての性質――薬品を吸い込み、染まるという物理現象までは誤魔化せませんでしたね」
レオンハルトは、試験管の中で揺れる青い糸を見つめ、感嘆の息を漏らした。
「……恐ろしいな、お前の科学とやらは。魔法使いの秘儀を、ただの色水で暴くとは」
「適材適所ですよ、殿下。魔法は万能ではありません」
スカーレットは試験管を振り、光にかざした。
「これで、犯人の『名刺』は手に入れました」
「名刺? たかが髪の毛一本だろう。これで犯人の顔が分かるわけじゃあるまいし」
「いいえ、分かりますよ」
彼女は断言する。
「ここには、犯人の『個人情報』が全て書き込まれています。性別、年齢、健康状態、そして……」
スカーレットは顕微鏡を取り出すまでもなく、スキルの目視だけで髪の表面を観察した。




