第34話:現場には「何もなかった」という証拠がある
第四の殺人現場となったのは、下層区の広場から一本入った路地裏だった。
昨夜の冷たい雨は止んでいたが、地面は泥濘み、あちこちに水たまりができている。
黄色い「立入禁止」の魔導テープが張り巡らされ、その外側では野次馬たちが不安げに囁き合っていた。
「見えない悪魔が出たって……」
「騎士様でも捕まえられないらしいぞ」
恐怖は伝染する。現場を守る騎士たちでさえ、何もない空間に向かって剣を構えたり、魔除けのお守りを握りしめたりしている始末だった。
「……嘆かわしいな」
到着したレオンハルトが、その光景を見て吐き捨てる。
彼らが恐れているのは殺人犯ではない。「正体不明の怪異」という幻想だ。
「報告を」
「はッ! 殿下!」
現場指揮官の騎士が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「ダメです。やはり『何もありません』。被害者の遺体以外、犯人に繋がる痕跡が一つも……」
「足跡は?」
「ありません! 見てください、この泥を!」
騎士は地面を指差した。
そこには、被害者が逃げようとしてもがいた足跡と、第一発見者の足跡しかない。犯人が立ち去ったはずの方向には、泥の飛沫一つ落ちていなかった。
「ぬかるんだ地面を歩けば、必ず跡が残るはずです。なのに、ない。……やはり犯人は、足を着かずに浮遊する『悪霊』か何かでなければ説明がつきません!」
騎士の声が裏返る。
魔法的常識で考えれば、そう結論づけるしかないのだろう。透明化の魔法を使っても、泥を踏めば足跡は見えるはずだからだ。それすらないということは、実体がないということになる。
だが、スカーレットは鼻を鳴らした。
「……悪霊? 非科学的ですね」
彼女は白衣の裾が汚れるのも厭わず、規制線をくぐって泥の中に踏み入った。
「おい! 現場を荒らすな!」
「荒らしているのは貴方たちの『思い込み』です。……下がっていてください」
スカーレットは被害者の遺体――喉を裂かれ、血の海に沈んだ若い女性――のそばで立ち止まり、地面を凝視した。
彼女は遺体の傷口を一瞥する。
頸動脈を一撃で切断する鋭利な刃物傷。その角度はほぼ水平。
(被害者と犯人の身長差はほとんどない。犯人は地面に立って、腕を水平に振った。もし浮遊していたなら、傷口にはもっと角度がつくはず)
スカーレットは躊躇なく、泥の上に這いつくばった。
高級なドレスの膝が泥水を吸うが、彼女は気にも留めない。
「――【解析】」
ユニークスキルが発動する。
彼女の瞳孔が収縮し、視界が切り替わる。
泥の粒子、水分の含有量、そして地面にかかる「圧力の分布」。
魔法使いは「魔力」を見るが、彼女は「物理」を見る。
そして、見つけた。
(……やはり、ありましたね)
彼女の視界の中で、泥の表面は平坦に見える。
だが、その内部――土壌粒子の密度が、不自然に「高くなっている」箇所が点々と続いていた。
それは、大人の男性の靴底の形をしていた。
「見つけました」
「な、何がだ? 何も見えないぞ」
騎士が怪訝そうに覗き込む。
スカーレットは立ち上がり、テオに目配せをした。
「テオ。例の粉を」
「は、はいっ!」
テオが鞄から取り出したのは、微細な「石膏の粉」が入った袋だ。
スカーレットはそれを鷲掴みにすると、何もない泥の上に向かって掲げた。
「皆様。ここには何も無いように見えますか?」
「当たり前だ、ただの泥だろう」
「では、ご覧ください。これが『透明人間の体重』です」
彼女は、粉をふわりと撒いた。
白い粉雪のような粒子が、風に乗って泥の上に舞い落ちる。
その瞬間。
奇妙な現象が起きた。
「あ……ッ!?」
周囲からどよめきが上がる。
平坦に見えていたはずの泥の上に、粉が積もると同時に、くっきりと「男のブーツの形」が白く浮かび上がったのだ。
一つではない。被害者を取り囲むように、いくつもの足跡が出現する。
「あ、足跡が出た!?」
「そこに……そこにいたのか!?」
「魔法で隠していたのか!?」
スカーレットは手を払い、解説する。
「犯人のスキル【完全隠蔽】は、視覚情報だけでなく『形状認識』すら阻害するようですね。足跡という『情報の凹凸』を、周囲の景色と同化させて平坦に見せていた」
彼女は浮かび上がった白い足跡を指差す。
「ですが、詰めが甘い。視覚情報は誤魔化せても、体重によって押し固められた『土の密度』までは戻せなかった」
「密度……?」
「ええ。そこには確かに『窪み』が存在します。ただ、貴方たちの脳が『平らだ』と認識させられているだけ。……異物(粉)を乗せることで、その認識阻害のレイヤーを強制的に剥がしました」
それは、コロンブスの卵のような発想だった。
見えないなら、見えるものを乗せればいい。
魔法の理屈を、物理的な質量でねじ伏せる。
「幽霊に体重はありません。ここにいたのは、靴のサイズ二十七センチ、体重七〇キロ前後の、実体を持った人間です」
スカーレットはさらに歩を進め、現場の煉瓦塀を指差した。
昨夜の雨で、壁は黒ずんでいる。
だが、一箇所だけ――不自然に「乾いている部分」があった。
「あれを見てください」
それは、まるで人が壁に寄りかかっていたような、乾いた人型のシルエット。
「『雨陰』です」
「あまかげ……?」
「犯人はここで、雨の中じっと獲物を待っていました。透明になっても、その肉体は雨粒を弾きます。だから、背後の壁が濡れなかった」
壁に残る、乾いた人型。
地面に浮かぶ、白い足跡。
それらは、これまで「見えない恐怖」に怯えていた人々に、「敵は人間である」という現実を突きつけるのに十分すぎる証拠だった。
レオンハルトが、剣の柄に手を置いた。
その顔から、焦燥の色が消え、獰猛な戦意が戻っている。
「……やはり、人間か」
彼は騎士たちを見回し、腹の底から声を張り上げた。
「聞いたか! 足跡があり、身長があり、質量がある! これは悪霊ではない! 我々と同じ、肉体を持った薄汚い殺人鬼だ!」
「お、おおっ……!」
騎士たちの目に光が戻る。
得体の知れない怪異は怖いが、生身の人間ならば戦える。殺せる。
恐怖という霧が、科学の風によって晴らされたのだ。
スカーレットは、満足げに頷くと、再び遺体へと向き直った。
彼女の仕事は、まだ終わっていない。
犯人が人間だと分かっただけでは、逮捕することはできない。必要なのは、犯人を特定する「決定的な痕跡」だ。
「質量があるなら、必ず『摩擦』が生じます」
彼女は鞄からピンセットと、小さなガラス瓶を取り出した。
「犯人は被害者を掴み、被害者は抵抗した。……ならば、互いに何かを交換しているはずです」
スカーレットは、被害者の衣服の襟元、そして死後硬直した手の爪の間に、鋭い視線を走らせる。
そこには、魔法使いには絶対に見えない、微細な真実が残されているはずだ。
「――『エドモンド・ロカール』。私の故郷の偉大な捜査官の名にかけて、必ず見つけ出します」
スカーレットは、ピンセットを構えた。
近代科学捜査の基本原則が、異世界の完全犯罪を追い詰める。




