第32話:王都を覆う影、あるいは「切り裂きジャック」の再来
王都の下層区「シャドウ・ロウ」。
華やかな上層区の真下に位置するこの場所には、魔法の恩恵が行き届かない。空は巨大な浮遊都市の影に覆われ、昼でも薄暗く、夜になれば漆黒の闇に沈む。
降りしきる冷たい雨が、路地の石畳を濡らし、下水の臭いを巻き上げていた。
「……嫌な夜ね」
酒場の看板娘である少女は、仕事帰りの足を早めていた。
カツ、カツ、と響く自分の足音が、やけに大きく聞こえる。
最近、街では不気味な噂が流れていた。「見えない切り裂き魔」が出る、と。
被害者は若い女性ばかり。悲鳴を上げる間もなく喉を裂かれ、血を抜かれたように白くなって発見されるという。
(早く帰ろう。……気のせいよ、誰もいないわ)
彼女はコートの襟を立て、震える体を抱きしめる。
ふと、背筋に悪寒が走った。
視線を感じる。誰かに見られているような、粘着質な気配。
「――誰?」
彼女は立ち止まり、勢いよく振り返った。
そこには、誰もいなかった。
ガス灯の頼りない光が、雨に煙る路地を照らしているだけ。猫一匹いない。
「……なんだ、気のせいか」
安堵の息を吐き、再び歩き出そうとした時だった。
ピチャッ。
目の前で、水音がした。
自分の足音ではない。数メートル先の水たまりが、何かに踏まれたように飛沫を上げたのだ。
だが、そこには誰もいない。
「え……?」
少女は目を凝らす。
雨脚が強まる中、不可解な光景が瞳に映った。
降り注ぐ雨の中に、ぽっかりと「濡れていない空間」があった。
それは人の形をしていた。雨粒が何もない空間で弾け、透明な肩や頭の輪郭を描き出している。
――そこに、誰かいる。
見えない何かが、目の前に立っている。
「ひッ……!?」
悲鳴を上げようとした瞬間、視界が反転した。
喉元に走る、熱い衝撃。
声は出なかった。代わりに、ヒューという空気が漏れる音と、温かい液体が溢れる感覚だけがあった。
薄れゆく意識の中で、彼女は見た。
自分の首から噴き出した赤い血が、何もない空間に付着し、ニヤリと歪んだ「口の形」を染め出すのを。
◇
翌朝。
雨は上がり、王宮の地下三階には、いつも通りの澄んだ(そして薬品臭い)空気が流れていた。
「……美しい」
第零班ラボの実験台で、スカーレットはシャーレ(培養皿)を光にかざし、うっとりと溜息をついていた。
寒天培地の上には、黄金色のコロニーが花のように広がっている。
「見てください殿下、この『黄色ブドウ球菌』の増殖ぶり。完璧な真円を描いています」
「朝一番に見せるものではないな。即刻焼却処分しろ」
レオンハルトは、コーヒーカップ片手に顔をしかめた。
平和な朝の風景。
だが、その安らぎは、扉を乱暴に開ける音によって粉砕された。
「お嬢様、殿下! 一大事です!」
飛び込んできたのは、侍女のレイブンだ。
常に冷静沈着な元暗殺者が、珍しく呼吸を乱し、顔色を青ざめさせている。
「第4の事件が起きました。……今度は、これまでの『深夜の路地裏』ではありません」
「何だと?」
「早朝の市場近く、人通りのある広場の脇です。衆人環視の中で、またしても『見えない凶行』が行われました」
◇
ラボの空気が一変する。
レオンハルトは地図を広げ、険しい表情で現場の位置を確認した。
「被害者は?」
「19歳の女性。死因は頸動脈切断による失血死。……発見までわずか10秒でした」
レイブンの報告は、常軌を逸していた。
悲鳴を聞いた近くの騎士が、角を曲がって現場に到着するまでわずか10秒。
現場は袋小路。犯人が逃げる場所はない。
しかし、そこには被害者の遺体があるだけで、犯人の姿も、足跡も、魔力の痕跡すらもなかったという。
「騎士団の報告書によれば、『壁抜け』や『転移魔法』の痕跡もなし。完全に煙のように消えたそうです」
「馬鹿な。白昼堂々、人間が消えるだと?」
「ええ。ですから、街では噂になっています」
レイブンは声を潜めた。
「犯人は人間ではない。『透明な悪霊』か、風の魔獣『カマイタチ』の呪いだと。魔法警察もパニック状態で、神殿に除霊師の派遣を要請する騒ぎです」
魔法が存在する世界だからこそ、人々は理解できない現象を「未知の怪異」のせいにしたがる。
見えない。魔力がない。ならばそれは、幽霊か呪いに違いない、と。
「……馬鹿馬鹿しい」
スカーレットは白衣を羽織り、眼鏡を指で押し上げた。
その瞳には、恐怖ではなく、未知の謎に対する冷徹な光が宿っている。
「私の故郷にも、似たような話がありました。19世紀のロンドン……霧の都で、姿なき殺人鬼が女性を切り刻んだ事件。人々は彼を『切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)』と呼び、悪魔の仕業だと恐れました」
「ロンドン? どこの田舎だ?」
「遠い場所です。……ですが、結論は同じ」
スカーレットは断言する。
「幽霊は質量を持ちません。呪いはナイフを握れません。人間の喉を一撃で切り裂くには、鋭利な刃物と、それを振るう腕力が必要です」
「つまり?」
「そこには確実に、『質量を持った人間』が存在しています」
彼女は往診鞄を手に取った。
「行きましょう、殿下。幽霊退治ではありません。オカルトに逃避した警察諸君に、『物理学の授業』をして差し上げましょう」
◇
現場は、異様な雰囲気に包まれていた。
黄色い規制線(魔法テープ)の向こうには、怯える野次馬たち。そして、何もない空間に向かって剣を構えたり、お守りを握りしめたりしている騎士たちの姿があった。
「おい、通すな! ここは悪霊の呪いがかかっている! 近づくと呪い殺されるぞ!」
捜査官の一人が、スカーレットたちを見て叫んだ。
恐怖が伝染している。誰もが「見えない何か」に怯え、捜査どころではない。
「……嘆かわしいな。これが王国の治安維持組織か」
レオンハルトが吐き捨てる。
スカーレットは捜査官の警告を無視し、規制線をくぐった。
昨夜の雨で、地面はぬかるんでいる。被害者の遺体があった場所は、血と泥で汚れていた。
「足跡がない!」
捜査官が叫ぶ。
「見ろ、被害者の足跡しかない! 犯人は空を飛んでいたんだ! やはり悪霊だ!」
確かに、泥の上には被害者のブーツの跡しかない。
犯人の足跡は一つも……いや。
「……いいえ」
スカーレットは泥濘の前にしゃがみ込み、目を細めた。
「――【解析】」
視界が切り替わる。
泥の粒子、水分の含有量、そして地面にかかる「圧力の分布」。
彼女の目には、肉眼では見えない「違和感」がはっきりと映っていた。
「足跡の『形』はありません。ですが、『密度』がおかしい」
スカーレットは手袋をはめた指で、何もない泥の表面を指し示した。
「ここ、そしてここ。……泥の表面は平坦に見えますが、内部の土壌粒子が、長方形の形に圧縮されています」
「圧縮……だと?」
「ええ。犯人のスキルは、『光』だけでなく『形状認識』すら阻害するようですね。足跡という『情報の凹凸』を、周囲の景色と同化させて隠蔽している」
彼女は立ち上がり、冷ややかに告げた。
「ですが、詰めが甘い。情報は消せても、体重によって押し固められた『土の密度』までは戻せなかったようです」




