第31話:甘い報酬と次の火種
魔導卿毒殺事件の解決から翌日。
王宮の地下三階、第零班ラボの休憩スペースには、戦いの後の気だるい空気が漂っていた。
革張りのソファの上で、スカーレットは死体のようにぐったりと倒れ込んでいた。
白衣はシワになり、いつもは綺麗にまとめている真紅の髪も乱れている。
「……限界です。脳の前頭葉がストライキを起こしました」
彼女は天井の染みを見つめながら、うわごとのように呟く。
「思考回路の糖分残量がゼロです。今なら、どんな詐欺師の口車にも乗れる自信があります……」
「詐欺師に乗せられる前に、これを食え」
頭上から声が降ってきた。
事後処理を終えて戻ってきたレオンハルトだ。彼は上着を脱いでラフなシャツ姿になり、その手に王室御用達の紋章が入った「白い箱」を持っていた。
「契約通りの報酬だ」
その言葉を聞いた瞬間、スカーレットはバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。
「報酬……! まさか、例の?」
「ああ。王都で一番予約が取れないパティスリー『ル・ブラン』の新作だ」
レオンハルトが箱を開ける。
そこには、黒い宝石のように艶やかに輝く「ザッハトルテ」が鎮座していた。濃厚なチョコレートでコーティングされた、ウィーン発祥の至高のケーキだ。
「素晴らしい……! カカオ含有率七〇パーセント以上の香り!」
スカーレットの瞳が、事件解決時よりも輝いた。
彼女はフォークを手に取り、待ちきれない様子でケーキを口に運ぶ。
「んん……ッ!」
一口食べた瞬間、彼女は身を震わせた。
「五臓六腑に染み渡るスクロース(ショ糖)! 枯渇していた神経伝達物質が、急速に再合成されていくのを感じます!」
「……相変わらず、食い意地だけは立派だな」
リスのように頬を膨らませてケーキを貪るスカーレット。
先ほどまで冷徹な論理で大人たちをねじ伏せていた「魔法使い殺し」の面影はない。そこにいるのは、ただ餌付けされた小動物だ。
レオンハルトは呆れつつも、その無防備な姿を愛おしそうに見つめていた。
「おい、ついてるぞ」
「ふぇ?」
スカーレットが顔を上げると、レオンハルトが自然な動作で手を伸ばしてきた。
彼の親指が、スカーレットの口元を掠める。
頬についていたチョコレートクリームを、優しく拭い取ったのだ。
「……子供か、お前は」
そして、彼はあろうことか。
拭った指をそのまま自分の口に含み、クリームを舐め取った。
「うん、悪くない」
時間が止まった。
スカーレットの手から、カチャンとフォークが滑り落ちる。
ドクン。
心臓が、痛いくらいに大きく跳ねた。
顔が一気に熱くなり、思考回路にホワイトノイズが走る。
(心拍数一四〇突破。コルチゾール上昇。交感神経が異常興奮状態)
(……これは『恐怖』? いいえ、対象への敵対行動や回避行動は見られない。なら、何?)
スカーレットは未知の生理反応に混乱し、椅子ごと後ずさった。
「……で、殿下。距離が近すぎます。唾液感染のリスクが」
「嫌なら避ければいいだろう」
レオンハルトは悪戯っぽく笑い、スカーレットの顔を覗き込んだ。
「……避けなかったのは、誰だ?」
「くっ……!」
スカーレットは言葉に詰まる。
この男、無自覚にフェロモンを散布している。これは一種の生物兵器だ。
彼女は必死に深呼吸をし、乱れた数値を正常化しようと試みる。
(落ち着きなさい、スカーレット。これは単なる糖分摂取による急激な血糖値スパイク(上昇)よ。あるいは、カフェインによる動悸。……そう、医学的に説明がつく現象だわ)
自分自身への欺瞞工作を行っていた、その時だった。
「お取込み中、失礼します」
氷のように冷たい声が、甘い空気を断ち切った。
入り口に立っていたのは、侍女のレイブンだ。彼女はいつになく険しい表情で、一枚の新聞を手にしている。
「……レイブン。ノックは?」
「しました。お二人がイチャつ……いえ、議論に夢中だったので聞こえなかったのでしょう」
レイブンは無表情でそう告げると、テーブルの上に新聞を置いた。
それは、夕刊の号外だった。
踊るような大見出しが、スカーレットの目に飛び込んでくる。
『王都の悪夢! 深夜の連続切り裂き魔、3人目の犠牲者』
スカーレットの表情から、瞬時に「乙女」の色が消えた。
代わりに現れたのは、冷徹な「捜査官」の顔だ。
「……詳細を」
「はい。昨夜未明、下層区の路地裏で若い女性の遺体が発見されました。死因は、鋭利な刃物による喉の切断。……これで三人目です」
レイブンは淡々と報告を続ける。
「被害者は全員、若い女性。そして、不可解な点が一つあります」
「不可解な点?」
「現場は人通りのある路地や、街灯の下でした。しかし、『誰も犯人を見ていない』のです」
レオンハルトが眉をひそめる。
「目撃者がいない? 夜闇に紛れたか、遠距離からの魔法狙撃か?」
「いいえ。目撃証言によれば、『被害者が突然、何もない空間で血を噴き出して倒れた』とのことです。近くには誰もいなかったと」
誰もいない空間で、喉が裂ける。
そんな怪奇現象を前に、王都の治安維持組織はパニックに陥っていた。
「警察は、人間ではなく『カマイタチ』のような魔獣か、あるいは『透明な悪霊』の仕業だと騒いでいます。物理的な捜査を放棄し、神殿に除霊を依頼する騒ぎです」
「……」
スカーレットは眼鏡のブリッジを押し上げた。
その瞳の奥で、冷たい怒りと、知的な興奮が渦を巻く。
「透明人間……ですか」
彼女は呟く。
「光学迷彩か、認識阻害魔法か。……いずれにせよ、ふざけた話です」
「スカーレット?」
「殿下。幽霊はこの世に存在しません。もし存在するとしても、ナイフを握って人の喉を裂くことはできません」
スカーレットは食べかけのザッハトルテを置いた。
甘い時間は終わりだ。これより先は、血と泥にまみれた狩りの時間。
「光は屈折させられても、『質量』までは消せません」
彼女は白衣を翻し、立ち上がる。
「ナイフが肉を裂いたなら、そこには必ず『力』と『物体』が存在したはずです。そこに質量があるなら、必ず痕跡が残ります」
「……行くのか」
「ええ。幽霊の正体を暴きに」
レオンハルトもまた、ラフなシャツの上に黒いロングコートを羽織り、剣を佩いた。
二人のバディが、再び動き出す。




