第29話:動機の告白
深夜の執務室を支配していた張り詰めた空気が、ふっと緩む。
それは解決の安堵ではない。断崖絶壁に立たされた人間が、自ら足を踏み出した時に見せる、諦観の静寂だった。
「……ふふ」
漏れ出たのは、小さな笑い声だった。
狂気じみた高笑いではない。長く背負っていた重い荷物を、ようやく地面に下ろしたような、憑き物が落ちた笑み。
彼女はゆっくりと顔を上げ、スカーレットを見つめた。その瞳からは、先ほどまでの怯えの色が消え去り、代わりに昏い光が宿っていた。
「あの方(夫)は……一生かかっても、私の罪には気づかなかったでしょうね」
エリーゼは独り言のように呟く。
「あの人は偉大でしたもの。いつも上を見て、空を飛び、魔力という『輝き』ばかりを追いかけていました。……だから、足元にある泥のような『物質』には、最期まで気づかなかった」
「輝きは目をくらませますから」
スカーレットは眼鏡の位置を直し、静かに問う。
「認めますか?」
「ええ。私が殺しました。……あの気取った氷とワインを使って」
その告白は、あまりに淡々としていた。
弟子であるギデオンが、信じられないものを見る目で後ずさる。
「奥様……まさか、本当に貴女が? あれほど先生に尽くしていた貴女が、なぜ……」
「尽くしていた?」
エリーゼはギデオンを一瞥した。その目には、氷のような冷たさがあった。
「そう見えていましたか? ええ、そうでしょうね。私は『良き妻』を演じていましたから。……実験動物として飼い慣らされた、従順な家畜を」
◇
エリーゼは窓辺に歩み寄り、夜の闇を見つめながら語り始めた。
それは、黄金の檻の中で腐敗していった、彼女の半生の記録だった。
「私は『無環』です。魔力を持たず生まれた、貴族の面汚し。実家は私を政略の道具として、高額な結納金と引き換えにヴァルド公爵家に売り渡しました」
この国において、魔力を持たない貴族の扱いは悲惨だ。平民ならばまだしも、血統を重んじる貴族社会において、魔力なき者は「欠陥品」のレッテルを貼られる。
「夫は、私を妻として愛してはいませんでした。彼が私を求めた理由はただ一つ。……『魔力を持たない人間が、高濃度の魔素環境にどう反応するか』のデータが欲しかったからです」
レオンハルトが眉をひそめる。
ヴァルド公爵のマッドサイエンティストぶりは有名だったが、まさか妻まで実験材料にしていたとは。
「毎日、検査魔法をかけられ、食事には微量の魔力増強ポーションを混ぜられました。私が『苦しい』『痛い』と訴えても、彼は『データに異常はない』と笑うだけ」
「……」
「彼は私の言葉を聞こうともしませんでした。彼にとって私は、喋る人形以下の存在……ただのサンプルだったのです」
エリーゼは自分の腕を抱くようにさすった。長袖のドレスの下には、無数の注射痕や、魔法による火傷の痕が隠されているのだろう。
「逃げようともしました。ですが、私には力がない。金もない。実家に助けを求めても、『我慢しろ』と追い返されるだけ」
「だから、殺したのですか?」
スカーレットの問いに、エリーゼは首を横に振った。
「いいえ。それだけなら、私は死ぬまで耐えていたでしょう。……私が彼を許せなくなったのは、あの日からです」
彼女の脳裏に、ある日の光景が蘇る。
屋敷の裏庭。そこは彼女に与えられた唯一の自由な空間だった。
魔力を使わず、土にまみれて種を撒き、水をやる。植物たちが芽吹き、花を咲かせるのを見守る時間だけが、彼女が「人間」でいられる瞬間だった。
そこで彼女は、実家の古い書庫で見つけた図鑑を頼りに、美しい紫色の花を育てていた。
兵士の兜のような形をした、凛とした花。
「ある日、夫は庭にやってきて……私が育てていた花を、魔法で焼き払いました」
エリーゼの声が震える。悲しみではなく、煮えたぎるような憎悪で。
「『魔力もない下等な雑草を植えるな』と。……『私の庭に、価値のないゴミを置くな』と」
「……それが、トリカブトだったのですね」
「はい」
彼女は、焼け焦げた土の匂いを思い出すように目を閉じた。
「その時、思い出しました。あの古い本に書かれていた言葉を。『この草の根は、熊をも殺す猛毒を持つ』と」
夫は笑っていた。魔力を持たない妻が、魔力を持たない草を育てているのを、無価値だと嘲笑っていた。
その傲慢さが、彼女の中で何かのスイッチを入れた。
「夫は常に、食事への毒物混入を警戒していました。魔法のセンサーを張り巡らせ、少しでも魔力を帯びたものは排除していました。……ですが、自然の植物には無警戒でした」
「魔力がないから、ですね」
「ええ。だから、私は賭けました」
エリーゼは、部屋に残された魔導捜査官たちを見回し、勝ち誇ったように微笑んだ。
「彼が馬鹿にしていた『雑草』が、偉大な魔導卿に勝てるかどうかに。……魔力なき私が、知恵だけで魔法使いを殺せるかどうかに」
それは、弱者によるシステムへの反逆だった。
魔法こそが全てとされる世界で、虐げられた者が「科学(知識)」という武器を手に取り、巨人を倒したのだ。
なんという皮肉だろうか。
部屋にいる男たちは、誰も言葉を発せなかった。
捜査官ガイルの顔色は土気色だ。「魔力のない女」に見下され、あまつさえ最強の魔法使いが殺されたという事実は、彼らのアイデンティティを根底から揺るがしていた。
◇
静寂の中、スカーレットが歩み寄る。
彼女はエリーゼの前に立ち、その目を真っ直ぐに見つめた。
「貴女の実験は成功しました、夫人。……物理法則は、魔力の多寡を差別しません。貴女の計算通り、毒は彼を殺しました」
「……ふふ。貴女にそう言ってもらえると、少し誇らしいわ。あの人を出し抜いたのですもの」
「褒めているのではありません」
スカーレットの声は冷たかったが、そこには侮蔑ではなく、深い哀れみがあった。
「貴女は科学を『復讐』に使った。それは研究者として最も安易で、悲しい道です」
「……」
「その知恵と、トリカブトの毒性を抽出する技術、そして数ヶ月かけて栽培した忍耐力……。それらがあれば、貴女は素晴らしい薬師(薬剤師)になれたでしょうに」
エリーゼが目を見開く。
「無能」と罵られ続けた彼女に対し、初めて「才能があった」と告げる者が現れたのだ。
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……そうね。もっと早く、貴女のような方に出会えていれば……私は花屋にでもなれたのかしら」
レオンハルトが、控えていた騎士たちに合図を送る。
ガチャリ、と冷たい金属音が響き、夫人の細い手首に手錠がかけられた。
「公爵夫人エリーゼ。殺人容疑で拘束する」
「はい」
夫人は抵抗しなかった。むしろ、その表情は清々しかった。
「不思議ね。この手錠は冷たくて重いけれど……あの屋敷の結界より、ずっと自由を感じるわ」
彼女は連行されていく。
部屋を出る間際、エリーゼは一度だけ振り返り、スカーレットに微笑みかけた。
「ありがとう、名探偵さん。……貴女なら、この歪んだ世界を変えられるかもしれない」
扉が閉まる。
後に残されたのは、重苦しい沈黙と、敗北した魔法使いたちだけだった。
「……信じられん」
ガイルが、悪夢を見るような顔で呟いた。
「魔力のない人間が……たかが草と氷で、魔法使いを殺せるなんて……。そんなことがあってたまるか」
「ええ、殺せます」
スカーレットは白衣を翻し、冷徹に言い放った。
「知識さえあれば、私たちは神殺しだってできる。……そのことを、肝に銘じておくことですね」
魔法への盲信が招いた悲劇。そして、それを暴いた科学の刃。
第零班の最初の事件は、苦い後味と共に幕を下ろした。




