第27話:時限式殺人トリック
スカーレットは、長机の上に並べられた四本の試験管を指し示した。
中にはそれぞれ、透明な液体が入っている。
「私は現場に残された『水』を分析しました」
彼女は白衣のポケットから、別の試薬瓶を取り出す。
「検体A:現場のデスクにあった『銀の水差し(ピッチャー)』の水」
「検体B:被害者の『グラス』に残っていた水滴」
「検体C:ゴミ箱の底に溜まっていた『謎の汚水』」
「そして検体D:先ほどテオ君が王宮の厨房から貰ってきた、製氷機の『氷』を溶かした水」
スカーレットは試薬瓶の蓋を開ける。
中に入っているのは「EDTA溶液」の代用品だ。水に含まれる金属イオン(ミネラル)と結合し、色を変える性質を持つ。
「殿下。水にも『顔』があるのをご存知ですか?」
「顔?」
「ええ。どこで汲まれたか、どの地層を通ってきたか。水は、その生まれ故郷の記憶(成分)を溶かし込んでいます」
彼女は手際よく、各試験管に試薬を一滴ずつ垂らした。
ポチャン、と波紋が広がる。
直後、液体が鮮やかに変色した。
「……色が違うな」
レオンハルトが身を乗り出す。
検体A(水差し)だけが、濃い青紫色に染まった。
対して、検体B、検体C(ゴミ箱)、そして検体D(厨房の氷)は、薄い赤紫色を示している。
「この部屋の水差し(A)は、貴族御用達の硬水(湧き水)です。ミネラル分が多いため、青く反応しました」
スカーレットは赤紫色の三本を並べた。
「しかし、被害者が口にしたグラスの水滴(B)と、ゴミ箱の水(C)は、厨房で使われている軟水(水道水)でした。……そしてそれは、厨房で作られた氷(D)と完全に一致します」
テオがごくりと喉を鳴らす。
化学反応が示した事実は、単純だが決定的な矛盾を孕んでいた。
「奇妙ですね。被害者は喉が渇いたとき、目の前にある高級な湧き水を使わなかった。代わりに、わざわざ厨房から持ち込まれた『何か』をグラスに入れたのです」
「……氷か」
レオンハルトが呟く。
「被害者は、ワインを冷やすために氷を入れた。その氷が溶けた水が、グラスに残っていたわけか」
「その通りです。そして、その氷こそが――この密室殺人を成立させた**『四人目の客』**の正体です」
◇
スカーレットは、クーラーボックスから「氷の塊」を一つ取り出し、用意していた赤ワインの入ったビーカーに落とした。
カラン、と涼やかな音が響く。
「トリックの全貌を解説します。犯人は、トリカブトの抽出液を水に混ぜて凍らせた。あるいは、氷の中心に高濃度の毒を注入して凍らせました」
彼女は懐中時計を取り出し、時間を追ってシミュレーションを開始する。
「昨夜の二十時。被害者である魔導卿は、犯人が用意した『毒入りの氷』をワインに入れ、執務室の結界を起動しました」
この時点では、部屋の中に犯人はいない。いるのは被害者と、冷たいワインだけだ。
「二十時五分。被害者はワインを一口飲みます。……この時、氷はまだ溶けていません。毒は氷の結晶の中に封印されています」
スカーレットはビーカーのワインを揺らす。氷はまだ固いままだ。
「だから、一口目のワインは安全で、美味しかったはずです。被害者は警戒心を解き、仕事を始めます」
「……だが、時間は進む」
「ええ。室温は二十四度。三十分もすれば、氷は形を保てなくなります」
スカーレットの視線の先で、ビーカーの中の氷が小さくなっていく。
溶け出した水が、赤いワインと混ざり合い、陽炎のような揺らぎを作る。
「二十時三十分。『相転移』が完了します。固体から液体へ。氷の檻が解け、封じ込められていたアコニチンがワインの中に解放されます」
「二十時三十五分。……仕事に疲れた被害者が、二口目のワインを飲んだ時」
スカーレットはビーカーを指差した。
「そこにあるのは、極上の赤ワインではなく――致死量の猛毒スープです」
レオンハルトは息を呑んだ。
魔法使いの発想にはない、あまりに物理的な殺害手法。
「魔法の結界は『外部からの侵入』は完璧に防ぎます。ですが、『内部で起きる物理変化』までは止められません」
「……時間差攻撃か」
「はい。犯人は、結界の外で優雅にお茶を飲みながら、『熱力学』という殺し屋が仕事をするのを待っていただけなのです」
アリバイなど無意味だ。
犯行時刻に現場にいる必要はない。氷が溶ける時間さえ計算できていれば、犯人はどこにいても人を殺せるのだから。
「すごい……。魔法を使わずに、結界をすり抜けるなんて」
テオが震える声で言った。
ギデオンたち魔法使いも、言葉を失っている。「氷が溶ける」という当たり前の現象が、これほど恐ろしい凶器になるとは想像もしなかったのだ。
スカーレットは満足げに頷くが、すぐに表情を引き締めた。
「ですが、このトリックには弱点があります。……犯人は、『余り物』の処分に失敗しました」
彼女は、汚れたゴミ箱をテーブルの上にドンと置いた。
現場検証で、彼女が這いつくばって見つけたものだ。
「このゴミ箱の底には、少量の水が溜まっていました」
「ああ。成分は氷と同じ、軟水だったな」
「それだけではありません。先ほどのクロマトグラフィーの結果、この水からも高濃度のトリカブト毒が検出されました」
レオンハルトの目が鋭くなる。
「つまり、毒入りの氷がゴミ箱に捨てられていたということか?」
「ええ。おそらく犯人は、毒入り氷を作った際、製氷皿に残った余分な氷、あるいは形が崩れた失敗作を処分する必要があった」
「……トイレや流しに捨てればよかったものを」
「焦ったのでしょうね。誰かに見られるのを恐れて、とっさに目の前のゴミ箱に隠した」
スカーレットは冷ややかに笑う。
「固体の氷なら、ゴミ箱の中に残って誰かに見つかるかもしれません。ですが、溶けてしまえばただの水。紙くずの下に染み込んで、証拠は消える――そう思ったのでしょう」
「だが、底に水が溜まった」
「はい。被害者は几帳面な性格でした。飲み残しの液体をゴミ箱に捨てるはずがない。……ここに氷を捨てたのは、『証拠隠滅を焦った第三者』以外にあり得ません」
◇
スカーレットは黒板に向き直り、三人の容疑者の名前を見上げた。
【弟子ギデオン】、【財務大臣】、【妻エリーゼ】。
「チェックメイトです、殿下」
彼女はチョークを手に取り、結論を記述していく。
「このトリックを実行できたのは、二つの条件を満たす人物だけです」
「一つ、厨房に出入りし、氷に細工をする機会があったこと」
「二つ、被害者の晩酌の準備をし、自然に氷入りワインを差し出せる立場であったこと」
スカーレットは振り返る。
「弟子と大臣は、当日の夕方以降、被害者には接触していません。彼らに毒入り氷を渡す機会はなかった」
「……可能だったのは、一人だけか」
レオンハルトの声が重くなる。
夫の身の回りの世話を焼き、かいがいしく尽くしていた人物。
魔力を持たず、魔法使いからは軽んじられていた、か弱き婦人。
「エリーゼ様」
スカーレットの視線が、部屋の隅で震えている公爵夫人エリーゼに固定された。
「……貴女の爪の間に残った『植物の汁』について、説明していただけますか?」




