第26話:崩れ去る「病死」説
深夜の執務室。
スカーレットが掲げた試験管の中、毒々しく輝く橙赤色の液体が、その場の空気を完全に凍りつかせていた。
だが、その沈黙を破ったのは、やはりこの男だった。
「――馬鹿なッ!!」
魔導捜査官ガイルが、顔を真っ赤にして叫んだ。
彼はスカーレットを指差し、唾を飛ばして喚き散らす。
「その水の色が変わったから何だと言うのだ! 貴様が手品を使ったに決まっている! そもそも、我々は最高位の探知魔法を使ったのだぞ!?」
「……」
「魔法省のエリートである我々の目が、平民の科学ごときに後れを取るはずがない! 魔法こそが絶対だ! 反応がなければ、そこに毒はないのだ!」
それは反論というより、信仰告白に近かった。
彼らのアイデンティティは「魔法が万能であること」に依存している。それを否定されることは、自らの存在意義を失うことに等しいのだ。
スカーレットは、そんなガイルを憐れむような目で見つめた。
「……貴方たちの信仰心の厚さには感服します、捜査官殿」
彼女は冷ややかに言い放つ。
「ですが、あいにくとここは教会ではありません。信仰で死因は特定できないのです」
スカーレットは踵を返し、黒板に向かった。
カツカツとチョークを叩きつけ、大きな円を描く。
「いいですか、よく聞いてください。貴方たちの探知魔法は、あくまで『魔力の波長』の歪みを感知するものです」
「それがどうした! 毒物はすべからく魔力を乱す!」
「それが思い込みだと言っているのです」
彼女は円の中に「魔法毒」と書き、円の外に「自然毒」と書いた。
「貴方たちのセンサーは、いわば『金属探知機』のようなものです。金属――つまり魔力を帯びたポーションや呪物は、完璧に見つけられるでしょう」
「当然だ!」
「ですが、犯人が持ち込んだ凶器が、木材や動物素材など(非魔力物質)で出来ていたら?」
ガイルが言葉に詰まる。
「今回使われた『アコニチン』は、北の山に自生するトリカブトの根に含まれる、純粋な化合物です。魔力など欠片も持っていません」
「魔力が……ない?」
「ええ。だから、貴方たちの優秀すぎるセンサーは、猛毒を『ただの水』として素通りした。……見逃したのではなく、最初から『検知対象外』だったのです」
スカーレットは教鞭(指示棒)で、黒板に貼られた模造紙を叩いた。
そこに描かれているのは、先ほどの実験結果――クロマトグラフィーによって分離された、美しい虹色の成分チャートだ。
「そこで私は、魔法ではなく『物理的な質量』の差を利用して成分を分けました」
彼女はチャートの下部に描かれた、一本の線を指し示す。
「この紫色の帯を見てください。これは、本来の血液中には絶対に存在しないはずの異物です」
「……」
「この成分だけを取り出し、特定の試薬(ドラーゲンドルフ試薬)を加えると、特有の橙赤色を示します。――先ほどお見せした試験管の通りに」
スカーレットは試験管を再び掲げ、揺らめく液体を照明にかざした。
「誰がやっても、何度やっても、必ず同じ色になる。これが『再現性』です。個人の魔力量や才能に左右される魔法よりも、よほど信頼できる証拠だと思いませんか?」
ガイルは脂汗を流し、後ずさる。
だが、まだ認めようとはしない。
「だ、だが、それはただの化学反応だろう! それが死因だと、どうして断言できる!」
「まだ言いますか。……では、遺体の『目』を思い出してください」
スカーレットは畳み掛ける。
「私は最初から指摘しましたね。『縮瞳』だと」
「そ、それは……」
「心不全なら、筋肉が弛緩して瞳孔は開くのが一般的です。しかし、アコニチン中毒は副交感神経を異常刺激し、瞳孔を極限まで縮めます」
彼女は断言する。
「化学分析による毒の特定。そして、医学的所見による症状の一致。……二つの事実が、完全に噛み合いました。これでもまだ、『病死』と言い張りますか?」
ガイルは口をパクパクさせたが、もはや言葉は出てこなかった。
彼の脳裏で、「魔力反応なし=無罪」という絶対の方程式が音を立てて崩れ去っていく。
自分たちは、無能だったのか。
魔法という色眼鏡をかけていたせいで、目の前の真実が見えなかったのか。
沈黙する捜査官たちに、冷たい声が追い打ちをかけた。
「……ガイル」
レオンハルトだった。
彼は扉の前で腕を組み、底冷えするような視線で部下たちを見下ろしていた。
「お前は遺体を見ず、自分の杖とプライドだけを見ていたようだな」
「で、殿下……」
「お前たちの誤診によって、あやうく完全犯罪を成立させるところだったぞ。……恥を知れ」
その一言は、どんな処罰よりも重く、エリートたちの矜持を粉砕した。
ガイルは膝から崩れ落ち、床に手をつく。
捜査の主導権が、完全に魔法省から「第零班」へと移った瞬間だった。
◇
スカーレットは、小さく息を吐いた。
警察の相手は疲れる。だが、これで邪魔者はいなくなった。
彼女は視線を巡らせ、三人の容疑者たちの反応を観察する。
弟子ギデオンと、政敵である財務大臣は、「まさか毒殺だったとは……」と驚き、青ざめている。自分たちも疑われていると理解し、戦々恐々としている様子だ。
だが、一人だけ反応が違う者がいた。
部屋の隅で椅子に座る、妻のエリーゼだ。
彼女は顔を伏せ、膝の上で両手をきつく握りしめている。
その指先が白くなるほどに。
(……震えているわね。毒の種類が特定されたことで、動揺している)
スカーレットの目が、確信を持って細められた。
だが、まだ勝負は終わっていない。
沈黙を破るように、弟子ギデオンが立ち上がった。
「ま、待ってください! 毒殺なのは分かった。先生が殺されたなんて信じたくないが……事実は認めよう!」
彼は混乱した頭を振る。
「だが、『密室』はどう説明するんですか!」
「密室?」
「そうだ! 先生は警戒心が強かった! 二十時に結界を張ってから、朝まで一歩も外に出ていないし、誰も入れていない!」
ギデオンは叫ぶ。
「結界は空気の循環以外、すべての物質と魔力を遮断する絶対領域だ! 霧状の毒も、転移魔法も通じない! 外部から毒を入れることなど、物理的に不可能なんだ!」
それは、魔法使いが作り出した最強の盾。
犯行時刻に誰も部屋に入れなかったという事実は、逆説的に「誰も殺せない」という証明になってしまう。
しかし、スカーレットは眼鏡のブリッジを押し上げ、涼しい顔で答えた。
「ええ。その通りです。外部からの侵入は一〇〇パーセント不可能です」
「なら……!」
「ですから犯人は、『内部から湧き出る』ように仕掛けたのです」
彼女は長机の上に置かれていた、二つの証拠品を手に取った。
被害者が使っていた「銀の水差し」と、飲みかけの「ワイングラス」だ。
「焦らないでください。……マジックの種明かし(物理トリックの解明)に移りましょう」
スカーレットは不敵に微笑んだ。
魔法の壁を、物理法則でこじ開ける準備は、もう整っている。




