第19話:魔法毒 vs 自然毒
王宮の地下深く、第零班ラボの最奥にある「検死保管庫」。
そこは、大量の氷魔石によって常に零度近くに保たれた、白く冷たい空間だった。
部屋の中央、無機質な石台の上に、魔導卿ヴァルド公爵の遺体が横たわっている。
かつてこの国の魔法界を牛耳った権力者も、今はただの「物言わぬ肉塊」に過ぎない。
「……始めるわよ、レイブン」
「はい、お嬢様」
スカーレットは白衣の上から防水性の革エプロンを着け、ゴム手袋を二重に装着した。
侍女のレイブンが、銀色のトレイを差し出す。その上には、メス、開胸器、ピンセットといった、この世界の住人が見れば拷問器具と見紛うような道具が並んでいる。
入り口で腕を組んで立っていたレオンハルトが、たまらず顔をしかめた。
「……本当に切るのか? スカーレット」
「怖気づきましたか、殿下?」
「そうではない。だが、この国において遺体の損壊は宗教的なタブーだ。死者の魂は肉体を離れて女神の元へ還るとされているが、器である体を傷つければ安息が妨げられると……」
「ナンセンスですね」
スカーレットはメスの刃先を照明にかざし、冷徹に言い放った。
「これは損壊ではありません。『対話』です」
「対話?」
「ええ。彼は口を閉ざしましたが、その肉体はまだ雄弁に語っています。『誰に殺されたのか』『どんな苦しみを味わったのか』と。……私のメスは、その声なき声を聞くための聴診器です」
彼女の瞳に迷いはない。そこにあるのは、死者への冒涜ではなく、真実を暴くことへの狂気じみた誠実さだった。
レオンハルトは短く息を吐き、頷いた。
「分かった。……全責任は俺が持つ。好きにやれ」
「感謝します」
◇
ザシュッ。
静寂の氷室に、皮膚と筋肉が切開される濡れた音が響く。
スカーレットの手際は鮮やかだった。迷いなくY字にメスを走らせ、肋骨を外し、臓器を露わにする。
グロテスクな光景だが、彼女の作業には職人のような機能美があった。
(皮下脂肪は厚め。内臓脂肪も多い。美食家だったのね。肝硬変の兆候あり……)
彼女は手際よく胃を摘出し、その内容物をガラスのビーカーへと移した。
さらに、心臓から赤黒い血液を採血管に採取する。
「……俺にはただの汚物に見えるが」
ビーカーの中身を見て、レオンハルトが顔を背ける。
赤ワイン色に染まった、ドロドロとした半固形物。
「宝の山ですよ、殿下」
スカーレットは愛おしそうにビーカーを掲げた。
「未消化の夕食……鴨肉のローストですね。それに、大量の赤ワイン。胃酸で変性していますが、成分は残っています」
彼女はビーカーに鼻を近づけ、慎重に臭いを嗅ぐ。
「……特異な臭いはなし。やはり、無味無臭の毒物が使われています」
「そこが分からん」
レオンハルトが疑問を口にする。
「魔法省の捜査でも、毒検知魔法は反応しなかった。最高位の神官も『呪いはない』と断言した。なのに、なぜお前は毒だと断定できる?」
スカーレットは作業の手を止め、ゆっくりと振り返った。
彼女はゴム手袋についた血を拭いながら、問い返す。
「殿下。この世界の魔法使いにとって、『毒』の定義とは何ですか?」
「定義? ……魔力を変質させて作る『ポーション』の一種だろう。飲めば体内の魔力回路を暴走させ、臓器を破壊して死に至らしめる」
「その通りです。だからこそ、探知魔法は『魔力の波長』を探すように設計されている」
スカーレットはビーカーを置いた。
「では、そこに『魔力を一切持たない毒』があったら? センサーはどう反応しますか?」
「魔力がない毒……? そんなものがあるのか?」
「あります。この世界に魔法が生まれるずっと前から、植物や動物が、外敵から身を守るために進化の過程で獲得した化学兵器……『自然毒(Natural Toxin)』です」
彼女はラボの棚の奥から、一冊のボロボロの本を取り出した。
革表紙は擦り切れ、背表紙には『民間薬草学』と手書きされている。著者は無名の平民だ。
「現代の魔法使いは、この本を『魔力のない貧乏人の落書き』と見下し、王立図書館の地下倉庫に捨てていました」
「……」
「ですが、ここには魔法文明以前の、先人たちが命がけで編纂した知識の結晶が記されています」
スカーレットはあるページを開き、レオンハルトに見せた。
そこには、兵士の兜のような形をした、美しい紫色の花が描かれていた。
「学名『アコニタム』。和名では『トリカブト』と呼ばれます」
彼女は図鑑の記述を指でなぞる。
「北の山岳地帯に自生する野草です。特にその根に含まれる成分『アコニチン』は、即効性の猛毒。致死量はわずか数ミリグラム」
「草の根が、人を殺すのか?」
「ええ。神経系のナトリウムチャネルを阻害し、不整脈と呼吸筋麻痺を引き起こします」
スカーレットは遺体の方を向いた。
「遺体の状況を思い出してください。『縮瞳』『チアノーゼ』『泡状唾液』……。これらはすべて、アコニチン中毒特有の症状と合致します」
レオンハルトは戦慄した。
魔法使いが絶対視していた結界も、探知魔法も、すべて無意味だったということか。
「つまり……魔法省のエリートたちは、魔力がないという理由だけで、目の前にある猛毒を『ただのサラダ』と見間違えたのか?」
「はい。彼らの目は『魔力』しか見ていない。だから、道端の草に殺されるのです」
スカーレットは皮肉っぽく笑った。
それは、科学という「忘れられた叡智」を持つ者による、魔法社会への痛烈な批判だった。
「犯人は、この『忘れられた知識』を持っていた人物です。魔法が使えないからこそ、魔法以外の力に頼らざるを得なかった」
容疑者C――公爵夫人エリーゼの顔が、二人の脳裏をよぎる。
庭いじりを趣味としていた、魔力なき妻。
彼女なら、トリカブトを「観賞用の花」と偽って育てていても、誰にも怪しまれないだろう。
「……筋は通っている」
レオンハルトは唸った。
「だが、スカーレット。それではまだ『仮説』の域を出ない」
「とおっしゃいますと?」
「証明だ。お前が『これはトリカブトだ』と言っても、魔法使いたちは信じないぞ。『魔力反応がないじゃないか』と言い張るだろう。このドロドロの胃液を見せたところで、彼らにはただの汚物にしか見えん」
そうだ。
科学を知らない人々に、科学的事実を認めさせるには、「理屈」だけでは足りない。
誰の目にも明らかな「証拠」が必要だ。
「その通りです、殿下。だからこそ、『可視化』が必要です」
スカーレットは、胃の内容物が入ったビーカーを光にかざした。
「このスープの中から、不純物を取り除き、透明な『毒の成分だけ』を抽出する。そして、それに色をつけて見せるのです」
「そんなことができるのか?」
「ええ。『分離分析』を行えば」
彼女は自信満々に答えたが、すぐに表情を曇らせて、実験台の上に視線を落とした。
そこには、市販のワインボトルを割って作った、即席のビーカーや試験管が並んでいる。ガラスは厚みが不均一で、歪んでいる。




