第13話:契約成立、報酬は「研究費」と「お菓子」
王宮地下三階、旧・異端審問所。
改め、王宮警察特別捜査局「第零班」の執務室。
腐臭とカビの臭いは、強力な換気魔法と、持ち込まれた大量の薬品の匂いによって上書きされつつあった。
部屋の中央、急ごしらえで運び込まれた執務机を挟んで、スカーレットとレオンハルトは向かい合っていた。
二人の間には、一枚の羊皮紙が置かれている。
即席の、しかし国の運命を左右することになるであろう「雇用契約書」だ。
「――では、条件の最終確認を」
スカーレットは羽ペンを指で回しながら、事務的に口を開いた。
「第一に、捜査に関する全権委任。および、王宮内のあらゆる場所への立ち入り許可です。たとえそれが国王陛下の寝室であろうと、現場となれば踏み込みます」
「承認する。俺の名義で『特別捜査官』の身分証を発行しよう。王族直属の特務権限だ。近衛騎士団だろうが魔法省だろうが、文句は言わせん」
レオンハルトは即答した。
彼の瞳には、迷いはない。むしろ、これまで手出しできなかった聖域にメスを入れられることを歓迎しているようですらある。
「第二に、予算です」
スカーレットは、作成した見積書を提示した。
「私の捜査には、この世界に存在しない機材が必要です。多くの特注品の費用と、錬金術師ギルドから仕入れる試薬の代金。これらは公爵家の令嬢の小遣いで賄える額ではありません」
「構わん。魔法警察が飲み食いに使っている無駄な交際費を削れば、十分捻出できる額だ」
「話が早くて助かります」
スカーレットはサラサラと羊皮紙にチェックを入れていく。
そして、ペンを止めた。
彼女は眼鏡の奥の瞳を真剣なものに変え、身を乗り出した。
「そして第三。これが最も重要な条件です」
「……なんだ? 言ってみろ」
レオンハルトが身構える。
金か、地位か、それとも名誉か。公爵令嬢が真顔で要求するものなど、国家予算レベルの何かではないか――。
「現物支給として、『最高級の砂糖菓子』を無制限に供給してください」
一瞬、地下室に沈黙が落ちた。
換気扇の回るブーンという音だけが響く。
「…………は?」
レオンハルトは呆気にとられ、まじまじとスカーレットの顔を見た。
「菓子……だと? 宝石やドレスではなくか?」
「ええ。ドレスでは脳は動きませんから」
スカーレットは、さも当然の権利のように胸を張った。
「ご存知の通り、私のユニークスキル【微細構造解析】は、脳の視覚野と情報処理領域をフル稼働させます。魔力消費は大したことはありませんが、脳のカロリー消費――特にグルコース(ブドウ糖)の枯渇速度が常人の数倍なのです」
「グル……なんだって?」
「要するに、燃費が悪いのです。ガス欠は思考停止を招きます。捜査現場には常に、高カロリーで即効性のある糖分が必要です。それも、私のモチベーションを維持できるレベルの『美味なもの』が」
彼女は真顔で力説した。
半分は科学的な事実であり、もう半分は単なる彼女の趣味(甘党)であることは明白だったが、その理路整然とした口調に、レオンハルトは毒気を抜かれたようだった。
「……ふっ」
彼は口元を緩め、肩をすくめた。
「安いものだ。王都中のパティシエに作らせよう。君の優秀な脳みそが焼き切れる前に、山ほどの砂糖を献上する」
「交渉成立ですね」
スカーレットは満足げに頷き、契約書の末尾にサインをした。
レオンハルトもそれに倣い、王族の署名を入れる。
「これで契約成立だ」
レオンハルトはペンを置き、椅子から立ち上がった。
彼はスカーレットに向かって、右手を差し出した。
それは貴族社会における正式な握手であり、あるいは淑女への口づけを求めるポーズでもあった。
これから共に戦うパートナーへの、最大限の敬意と歓迎の証。
「歓迎するぞ、スカーレット。俺の『名探偵』」
ドラマチックな瞬間だった。
薄暗い地下室、美貌の王子と、才気煥発な令嬢。
物語ならば、ここで手を取り合い、見つめ合う場面だろう。
だが、スカーレット・ヴァレンタインは「物語の住人」ではない。「科学の使徒」だ。
「光栄です、殿下」
スカーレットも立ち上がり、彼の手に向かって手を伸ばす。
しかし、その手は握手に応えるものではなかった。
ガシッ。
彼女の左手が、レオンハルトの手首を素早く掴んで固定する。
そして右手は、懐から取り出したガラス管の中へ。
「……?」
レオンハルトが反応するより早く、彼女はガラス管から一本の棒を取り出した。
先端に脱脂綿がついた、長い綿棒だ。
ササッ。
乾いた音がした。
スカーレットは、固定したレオンハルトの手のひらを、綿棒で素早く、かつ念入りに拭い取ったのだ。
「…………今、何をした?」
レオンハルトは固まったまま、自分の手のひらと、スカーレットが持つ綿棒を交互に見た。
握手しようとした手を、掃除された。
王族として生きてきて、かつて経験したことのない扱いだった。
「サンプリングです」
スカーレットは何食わぬ顔で綿棒を試験管に戻し、コルク栓で密閉する。
そして、ラベルにサラサラと『Specimen L(検体L)』と書き込んだ。
「『除外サンプル(Elimination sample)』の採取ですよ、殿下」
「じょがい……?」
「ええ。今後、殿下は私として、多くの凄惨な事件現場に立ち入ることになります。当然、現場には貴方の髪の毛や、皮脂、汗などが落ちることは避けられません」
「まあ、そうだろうな」
「その際、あらかじめ貴方のDNA型を把握しておかないと、現場に落ちていた痕跡が『犯人のもの』なのか『殿下のもの』なのか、区別がつかなくなってしまいます」
スカーレットは試験管を振り、光にかざして確認する。
「捜査のノイズを減らすための、最低限のデータベース化です。他意はありません」
あまりに事務的で、あまりに色気のない説明。
彼女にとって、目の前の美貌の王子は「異性」ではなく、管理すべき「データの一つ」に過ぎないのだ。
数秒の沈黙が落ちた。
侍女のレイブンが「やってしまいましたね……」という顔で天を仰ぐ中、レオンハルトの肩が震え始めた。
怒りか? 不敬罪か?
「……ククッ」
漏れたのは、笑い声だった。
「……ハハハハハ! 傑作だ!」
レオンハルトは腹を抱えて爆笑した。氷の王子と呼ばれた面影もなく、年相応の少年のように。
「握手の代わりに菌を採取されるとは! 俺を『男』としてではなく、『検体』として見た女は君が初めてだ!」
「不服ですか? 生物学的には、男も検体も大差ありませんが」
「いや、最高だ。君を選んで正解だった」
彼は笑い涙を指で拭うと、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
それは、スカーレットが時折見せる「マッドな笑み」とよく似ていた。
「いいだろう、スカーレット。俺の骨の髄まで、君の科学で管理してくれ」
「ええ、お任せを。私の顕微鏡からは、誰も逃げられませんから」
奇妙な信頼関係が結ばれた瞬間だった。
色恋でも、主従でもない。
互いの狂気と知性を認め合った、対等な「共犯者」としての契約。
その時。
部屋の隅に設置されていた魔道具が、突然、不協和音を奏で始めた。
ビーッ! ビーッ!
赤黒い光が明滅し、鼓膜を逆撫でするような警報音が地下室に響き渡る。
王宮警察からのホットライン――「緊急通報」だ。
「……!」
レオンハルトの表情から笑みが消え、瞬時に捜査官の顔に戻る。
スカーレットもまた、試験管をホルダーに戻し、白衣の襟を正した。
「……お喋りは終わりのようだな」
「ええ。タイミングが良いのか悪いのか」
レオンハルトが受話器型の魔道具を取る。
「こちら第零班。……なんだと?」
短い応答。
彼の瞳孔が収縮し、部屋の温度が下がったような錯覚を覚えるほどの殺気が放たれる。
スカーレットは眼鏡のブリッジを押し上げた。
瞳の奥が、獲物を見つけた猛禽類のように鋭く光る。
「仕事が来たぞ、スカーレット。……それも、とびきり重いのがな」
平和な準備期間は終わった。
科学と魔法が衝突する、最初の事件の幕が開く。




